■浅田宗伯

 明治漢方最後の巨頭浅田宗伯について、当時の医学、儒学各方面の大家たちはその多彩な学殖を絶賛して、「栗園(宗伯)の前に栗園なく、栗園の後に栗園なし」と賛辞を呈した。

 宗伯は文化十二年(一八一五)信州筑摩郡栗林村(現在の松本市島立)に生まれた。幼名を直民、後に惟常と改めた。字を識此、号を栗園と称した。また薬室名は「誤らしむること勿れ」より採って、「勿誤薬室」と名づけている。祖父東斎、父済庵は医家として業を成した。宗伯は十五歳の頃より自ら志を立て、秘かに大望を抱くようになり、高遠藩の藩医中村仲棕の門に入った。中村門下に居ること一年余で京都に上り、中西深斎の塾に入り古方を学んだ。その傍ら、経書を猪飼敬所に、史学を頼山陽に学んでいる。京都に在って勉学すること四年、天保七年(一八三六)二十二歳の時、江戸に下り医業を開いた。翌年四月、父の死去で一旦帰郷後、再度東上、江戸医界の三大巨匠といわれた多紀元堅、小島学古、喜多村直寛にめぐりあい、栄光への階段を一歩一歩と昇りはじめたのである。

 安政二年(一八五五)幕府のお目見得医師となり、文久元年(一八六一)将軍家茂に謁見し、徴士の列に加えられた。慶応元年(一八六五)フランス公使レオン・ロッシュの難症を治し、医名は海外にまで響きわたった。翌慶応二年、法眼の位を授けられた。明治に入り、十二年宗伯六十五歳の時、明宮(のちの大正天皇)が生後間もなく全身痙攣をくり返し、危篤の状態に陥ったとき、宗伯の治療が効を奏し、日本の国体を救う大功労者となった。明治十四年には、漢方存続運動の結社、温知社の二代目社主となっている。明治二十七年三月十六日、満八十歳の多難、多彩、栄光に輝く一生を閉じた。

 宗伯の著述の膨大さは、他に類をみない。その数は八十種類二百余巻になるといわれる。『勿誤方函口訣』『橘窓書影』『古方薬議』『脈法私言』『傷寒論識』『雑病論識』『皇国名医伝』『先哲医話』などは代表作である。宗伯の学殖の広大・多彩さはその文章、詩、書、いずれも衆に秀れ、単なる医師ではなく国を治す国医であり、史学者であり、文人であり、思想家でもあった。

(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)