■後藤艮山

 艮山は古方派と呼ばれる江戸中期に興った医学革新運動の先駆者であった。ただし、古方派という呼称は彼の門人である香川修庵や山脇東洋の代になって初めて自覚をもって使われたのであって、艮山自身には革新の鼻祖というような大形な構えはまったく認められない。

 艮山は名を達、字は有成、俗称左一郎、また養庵とも号した。万治二年(一六五九)江戸常盤橋辺の僑居で生まれた。幼時より聡明で、少年の頃より学問を好み、林祭酒のもとで経学を学び、さらに牧村ト寿に医学を学んだが、その頃すでに従前行われていた医学に対する疑惑の念が生じていたという。

 二十七歳の時、江戸から京都に移り、相国寺西の室町に居を定めた。名を養達と改め医師として開業。その後、住居を狩野街に移して養庵と号し、次第に医名が高くなったので禁門前の正親町に移り、ここを終生の居とした。艮山は享保十八年(一七三三)江州伊吹山に登ったが、その旅行中に膈噫にかかり没した。享年七十五歳。千本連台寺中普門院に葬られた。

 艮山の門人は二百人を超えた。中でも香川修庵、山脇東洋らが高弟として有名である。

 艮山について特筆すべきは、従来の医師がおおむね髪を剃り、僧形となり僧衣を着け、僧官を受けていたのに抵抗して、艮山は髪を束ね、平服を着用したことであった。世人はこれを後藤流と呼んで、多くの医家がこれに追従し、形の上でも医業が仏教から独立し、医師の社会的地位確立の原動力になった。

 吉益東洞の万病一毒説とともに、目本人の手になった病因論として目本医学史上に不滅の光を放っているのは〃一気留滞説〃である。つまり、百病は一気の留滞に生ずると主張し、順気をもって治療の綱要とした。艮山は古方派の祖とされる人であるが、必ずしも傷寒論のみを金科玉条としたわけではなかった。広く他の書物やあるいは民間療法の中から、実効のあるものを採用した。また、灸、熊胆、温泉を賞用したので、世人は艮山を〃湯熊灸庵〃と呼んだ。艮山には著述らしいものはほとんどなく、『師説筆記』『東洋洛語』なども門人の編著と考えられる。

(参考・大塚恭男『東洋医学入門』)