■本間棗軒

 華岡流外科の大成者として、本邦外科史上燦然とその名をとどめるに至ったのが本間棗軒である。棗軒は諱を資章、後に救と改める。字は和卿、通称玄調、棗軒はその号である。

 本間家初代の道悦は美濃の人だが、九州天草の乱で不治の傷を負い、医に志ざした。その後、江戸を経て水郷潮来に定住、薬室を自準亭と称し、医家本間家の初代が誕生した。本間家は四代道意に至って常陸小川郷に居を移した。

 五代玄琢は棗軒の祖父であり、棗軒の父玄有は玄琢に養われ嗣となった。棗軒は玄有の第一子として、文化元年(一八○四)呱々の声をあげたのである。

 六代目は玄琢の長子道偉が嗣いでいるが、道偉は男児なきため、棗軒を養子に迎え、後に本間家七代を嗣いだ。本間家は玄琢をはじめとして水戸藩の名医原南陽になみなみならぬ薫陶を被っている。岳父道偉の深い愛情により棗軒は十七歳で江戸に出て、原南陽の門に入っている。しかしまもなく南陽は没したので、師事した期間はほんのわずかだったと考えられる。

 また棗軒は杉田立卿につきオランダ医学を学び、太田錦城に経義を問い、さらに西遊して華岡青洲の門に入った。そのあと長崎で種痘の術を学びつつ、シーボルトの医術を観察している。

 数年後、江戸に戻った棗軒は日本橋で業を開き、烈公の待医となり、天保十四年(一八四三)弘道館内に併立された医学館の医学教授となった。『瘍科秘録』『続瘍科秘録』『内科秘録』の著述は棗軒の三大代表作として光彩を放っている。

 棗軒は安政四年(一八五七)本邦初の下肢切断手術を脱疽患者に行っている。また、乳癌手術、膀胱結石摘出術、膣鏡の考案など創意発見するところが多い。

 さらに野兎病に関する指摘も行っており、野兎病に関する記載として世界で最も古いものである。棗軒は「天下第一の英物と申候は華岡一人かと奉存候」と口をきわめて称揚し、青洲を生涯の良師として仰いだ。

 外科史上ばかりか、漢方内科にも非凡の学識技能のあった棗軒は明治五年、六十九歳で没した。

(参考・矢数圭堂『華岡流外科の大成者本間棗軒』)