■賀川玄悦

 賀川流産科の鼻祖であり、わが国近代産科学の基礎を築いたのが賀川玄悦である。

 玄悦は元禄十三年(一七○○)江州彦根で生まれた。一名を光森、字は子玄と称した。父は長高といい、槍術をもって名あり代々彦根侯に仕えた。玄悦は庶子で禄をつぐことができないため、七歳で家を出て母の実家に養われて賀川姓を名のった。

 玄悦は農をきらい、鍼灸・按摩の術を学んだ。壮年に及んでさらに医学を学ぶため故郷を去って、京都に行き一貫町に住み、昼は古鉄銅器を商い、夜は鍼灸を施して生活の糧を得ながら独学で古医方を学び産科を独習している。この間に玄悦は按針十二法を案出している。この一貫町には、以後八代玄道が徳島に移住する明治二年まで約百年余り、ずっと住みついている。

 玄悦の多くの独創的業績のうち、最たるものは正常胎位の発見である。古来、洋の東西を問わず胎児は子宮内では頭を上に臀部を下にして位置しており、陣痛が始まると一回転して頭が下に向かうと考えられていた。これが誤りであり、妊娠中期頃から頭が下に位置するのが正常であることを初めて唱えたのは、西洋では米国の産科医ウイリアム・スメリーであり、日本では玄悦であった。二人は何の関連もなく一七五○年(寛延三)前後にこのことを発見したのである。

 玄悦は『産論』にこのことを記しているが、当時大方の人々はこれを読んでも信用せず、杉田玄白でさえ後でスメリーの『解剖図譜』をみて、やっと玄悦の説が正しかったことを知ったくらいである。

 玄悦の旺盛な実証精神は数々の新発見につらなり、回生術をはじめ十一種の治術を発見、創案した。また『産論』の中で、古来広く慣用されてきた産椅や腹帯の害を力説して、旧来の悪習の廃止を唱えた。玄悦の業績はすべて目で確認し、手指で試みた結果であり、推論や想像は一つもない。

 玄悦不朽の名著『産論』は、学がなく文章が幼稚であった玄悦のために、大儒者皆川淇園が筆をとったものである。時に玄悦六十七歳であった。安永六年(一七七七)七十八歳で没した。

(参考・杉立義一『賀川玄悦と賀川流産科』、京都府医師会編『京都の医学史』)