■香川修庵

 「儒医一本論」という有名な説を残した香川修庵は、天和三年(一六八三)播州姫路に生まれた。

 十八歳のとき京都に出て、医学を後藤艮山に学び、儒学を伊藤仁斎に学んだ。修学五年、彼は儒者になることは父の遺志でないと考え、医家のコースを選ぶ決心をした。彼はよく勉強し、古今の医籍をほとんど渉猟しつくしたが、古今の医籍、特に素問、霊枢、難経などに書かれてあることは実際医療に役立たず、「邪説」ときめつけた。そして、「異端邪説で己を修め人を治めて、たとえ岐伯、扁鵲ほどの名医になったとしても、そんなことは自分の望みではない」とまでいうのである。

 また、張仲景の傷寒論の医説は、正に信ずべきことに至ったが、惜しむらくはその理論は素問より出ていて、陰陽者流が混在し、一二の誤謬妄説もある。まことに千載の一大遺憾である。そのことから修庵は、聖道と医術は一本であることを唱えたのである。

 もともと修庵が医学を志したのは、聖賢の教えはつまるところ身を修めることが基本であり、身を修めるには無病ということが肝要である。病身では忠孝の道もなすことができないし、ましてや道を人に教えることなどできない、ということにあった。修庵にとっては、人生の目標は聖賢の道ひとすじであったわけである。そして、修庵は医の根本基盤を儒においた。王道たる日常の養も、権道たる万ハの治も、孔子、孟子の数言の中にありと主張したのである。

 修庵の主著は『一本堂行余医言』と『一本堂薬選』である。『行余医言』は修庵が自己の医術、医説を集大成した一つの医療全書である。同書の巻五は精神神経疾患を述べてあるが、当時の精神病学の書としては、世界最高の水準にあったと考えられる。

 『薬選』は親試実験により修庵が認めた多くの薬物その他の効能や、薬物の鑑別などを集積したものである。宝暦五年(一七五五)修庵は播州へ行き、京への帰途、丹波で死去した。享年七十三歳。

(参考・山田光胤『香川修庵』、京都府医師会編『京都の医学史』)