■北山友松子

 大阪の南、天王寺区の太平寺に安置されている北山不動明王には、灯明台や香炉に灯火や香煙が絶えることがない。この不動明王は、元禄時代に大坂で開業していた漢方医・北山友松子の化身なのである。

 友松子は名を道長、通称を寿安といった。友松子はその号であるが、別に仁寿庵、逃禅堂などとも号した。父は明の人で、長崎に亡命してきた馬栄宇である。長崎丸山の遊女との間に生まれた混血児が友松子であった。

 長ずるにおよんで、明から承応二年(一六五三)長崎に渡来した僧医で、後に帰化して黄檗山万福寺の隠元禅師の弟子となった戴曼公に師事した。戴畳公は在明時に晩年の@廷賢(『万病回春』の著者)に親炙した人物である。友松子は、小倉の医師原長庵にも学んだという。一時小倉侯に仕官したが、幾許もなく辞して京都、大坂に至り、結局大坂の町の気風が気に入って、道修谷といわれる川のほとりに移り住んだ。

 数多くの医書を読みこなし、治療も上手であった彼の周囲には、次第に大和や紀州の薬種問屋が集まってきて、それが道修町の繁栄の起源となった。人となりは剛直で、歯に衣きせず論駁したが、医師としての自らを律するにはきびしかったという。名利にこだわらず、富豪が分不相応に少ない謝礼をすれば責めるが、貧者には薬ばかりでなく、米や銭までも与えるという具合いであった。

 友松子は生前に不動明王の石像を作らせ、「等身石像、爾生前是誰、吾死後是爾、截断死和生、爾吾空也耳、北山友松子並題」の文字を刻んでおいた。元禄十四年(一七○一)三月三日に不動明王像の下の石室中にこもり、読経し鐘を叩いた。その鐘の音が絶えたのが十五日だったので、人々はその日を以て命日としたという。

 友松子には『増広医方口訣集』のほかに、『北山医按』『北山医話』『方考評議』『医方大成論抄』『纂言方考首書』などが知られている。

 (参考・大塚恭男『北山友松子』、中野操『大坂名医伝』)