■古方派の人々とその思想

大塚恭男

 古方派を字義通り解釈すれば、古医方、すなわち張仲景方を宗とする学派ということになり、富士川游以来、名古屋玄医を以て鼻祖とする考えが行われてきた。

「沫泗の間、古は楊墨路に塞る。盂子辞して之を闢いて廓如たり。南陽の岐、後に路に塞る者は劉朱の徒にして、陰虚の説を言う者、是なり。我ひそかに盂子に比す」(『丹水子』)とする玄医の語がその根拠とされている。

しかし、玄医について詳細に検討された花輸寿彦氏の近著によると、玄医の学説は曲直瀬すなわち後世派の学説を否定する形で構築されたのではなく、中国の「易水学派」と「錯簡重訂学派」の影響下に形成されたものであり、「貴陽賤陰」、「扶陽抑陰」を治療指針とする独自の生命観に立って古典への同帰を説き、その線上に『傷寒論』があったというのである。

従って『傷寒論』が唯一無二の教本であった訳ではなかったし、その説くところも金元ないし、その系列につながる明清の学説の影響が色濃く残っている。

 名古屋玄医に入門を申しこんで断わられたという逸話の持主である後藤艮山もまた必ずしも張仲景を特に信奉したわけではなかった。

彼にとって張仲景は、「素霊、八十一難、張機、葛洪、巣元方、孫思u、王Zらの書・・・・」と列挙されたうちの一人に過ぎなかったし、実践の上でも仲景方を多用した形跡はみられない。彼は一気留滞説の提唱者として知られる。『三因方』のいわゆる内所因、外所因、不内外所因の意義は認めつつも、発病の決定的因子としては生体の防衛機転をつかさどる気の機能が破綻をきたしたことにあるとするもので、治療法としては、食餌療法、灸、熊胆、蕃椒、温泉、懸瀑、順気剤、民間療法などの多岐にわたった。これよりすると艮山はむしろ葛洪に親近感をもっていたように思われる。

 艮山の門人である香川修庵は、艮山より更に一歩進んで、『傷寒論』をも批判の対象とした。三陰三陽の分類を否定したからである。修庵はすぐれた学者で、古典に通暁していたことは彼の著書『一本堂行余医言』、『一本堂薬選』にみることができるが、信奉するに足る古典や先人は遂に見出し得なかったとして「自我作古」の言をなすに至っている。

 艮山のいま一人の門人である山脇東洋は、古方派の中では最も張仲景を信奉し、その方を多用した人ではなかったかと思われる。しかし、彼とても仲景方のみを使用したわけではなく、『外台秘要方』復刻に努力した経緯よりみても視野の広い人物であったことが思われる。

東洋の目標としたところは、「古の道に拠って今の術を採る」ことであり、重要なのは張仲景の実証的精神なのであって、実践においては古方にしばられないとするものであった。東洋が外国の解剖書に刺激されて、一七五四年に本邦最初の人体解剖を行い、その記録を『蔵志』(一七五九)にとどめたことは有名である。

 古方派の人材中でも特に異色の存在である吉益東洞は万病一毒説の提唱者として知られる。東洞によれば、あらゆる病気はただ一種類の毒によって生ずる。その毒は後天的に体内に生ずるものであるが、毒の発生即発病というわけではなく、それが活動し始めると発病になるという。毒の種類が一種であるのに万病が存在するのは、毒の所在部位によって病態が異るためである。以上が彼の説の骨子であるが、体内に存在する毒の所在を明らかにするためには従来の診断法に加えて腹診が重要であるとして、腹診が体系化されるに至った。

「病応は体表にあらわる」という扁鵲の言葉がその背景にある。東洞は『傷寒論』を換骨奪胎して、処方別に配列した『類聚方』を作り、各方剤の証を探求した。そして、更に、各生薬について、その生薬を構成成分としている方剤を列挙した上で、生薬の証を求めるべく『薬徴』を著わした。

 以上が古方派の中の主要人物の略歴であるが、これらを通覧してみると、古方派の人々が、その額面通りに古方を金科玉条としたわけではない。彼等に共通して言えることは、これも程度の差はあるが、金元流の病埋論、薬理論に対して批判的であったということであろう。

一方、後世派と呼ばれる人々の中にも、張仲景方に充分の敬意をはらった人もあり、金元流の煩瑣な理論に深入りせず、経験、口訣の類を重んじた人も少なくない。親試実験を古方派のみの看板とするのは誤りであるとの批判もある。古方、後世方、更に蘭方が対立と習合を繰り返しつつ、それなりの成果をあげて、幕末に及んだと思われる。