■曲直瀬道三

 いうまでもなく、わが国に実証的医学発達の端緒を招いた医学中興の祖として崇拝されているのが曲直瀬道三である。
道三は名を正盛、また正慶ともいう。字は一渓で雖知苦斎(すいちくさい)、盍静翁(こうせいおう)または寧固(ねいこ)と号し、院号は翠竹院、のちに亨徳院と称した。永正四年(一五○七)京都の生まれである。

 十歳のとき江州(滋賀県)守山の天光寺に入り、十三歳のとき相国寺に移って喝食(かつじき)となった。
二十二歳のとき遊学の志を立て、下野(栃木県)の足利学校に入る。
その頃、明の留学から帰った田代三喜が初めて李朱の医方を関東で唱え、関東一円の間を往来して治を施していた。
道三は享禄四年(一五三一)会津の柳津で三喜と歴史的な出会いをしている。
そして、入門すること数年、李朱医学を講究し、古来の諸論、諸方の可否を明らかにし、用薬百二十種の効能を伝授され、天文十四年(一五四五)三十九歳の時、京に帰り、医術を専業に行うこととした。

 李朱医学を基礎に医師として名声を得た道三は、いままでに見られなかったタイプの医師であった。
すなわち名もない家柄から医師として一家をなし、将軍に仕えるまでになったものはいなかった。
時がまさに戦国の下剋上の世であったればこそ、より実践的で役に立つ彼の医学が人々に瞬時として入れられることになったのであろう。
道三はまた、啓迪院なる学舎を創設し、後進の養成にも力を注いだ。
この啓迪院はわが国の医学教育史上きわめて重要な存在である。
彼はこの医学教育の中で五十七ヶ条の医家の守るべき法を門人に与えているが、それは非常にプラグマチックなもので、よけいな道徳的説教は一条たりともなかった。
ただ第一条に「慈仁」とだけ記されているのみである。

 道三の代表的著述は『啓迪集』である。これは李朱医学の立場から古今の医書の主要な部分を抜粋し、簡潔に表式化したもので、それに自己の経験を加えている。
その他、『切紙』『薬性能毒』『出証配剤』『遐齢小児方』『涙墨紙』『雲陣夜話』など多数ある。
文禄三年(一五九四)没した。八十八歳であった。

(参考・矢数道明『近世漢方医学史』、森谷尅久『京医師の歴史』)