■曲直瀬玄朔

 二代目道三となった曲直瀬玄朔は、養父の初代道三の功績を恥ずかしめない医家としての実力を備え、初代道三と共に日本医学中興の祖と称されている。玄朔は天文十八年(一五四九)京都に生まれた。本名を正紹といい、通称道三(二代目)、東井と号した。

 初代道三の妹の子で、三十五歳の時、道三の養子となり、曲直瀬家を嗣ぐ。十二代にわたり日本の医界に君臨した曲直瀬家(三代目から今大路家と改めた)の基盤を築いた人である。玄朔の医法は初代道三と同様、あるいはそれ以上に、徹底してプラグマチックであり、医家の諸説を採長補短して自説の中にとり入れるという、基本的には李朱医学ではあるが、非常に幅広い考え方をもった人であった。

 玄朔は天正十年(一五八二)法眼に叙せられ、文禄元年(一五九二)に征韓の役で朝鮮に渡ったが翌年帰国、喘息発作に苦しむ関白秀次公を治療して著効をあげた。慶長十三年(一六○八)徳川秀忠の病を治して江戸に招かれる。そして城内に邸宅を賜わって、京都と江戸に交代で住むようになった。玄朔は寛永八年(一六三一)、江戸で没した。享年八十三。

 玄朔には多くの著書がある。そのうちの『医学天正記』は、玄朔が二十八歳のときから五十八歳までの三十年間にわたる診療記録を整理し、中風から麻疹に至る六十の病類部門に分類して、患者の実名、年齢、診療の年月日を入れ、日記風に記載されているもので、史学の文献としても重要視されている。ときの帝(みかど)正親町天皇、後陽成天皇を初め、信長、秀吉、秀次、秀頼、秀忠などの関白将軍や、公卿左大臣近衛公を筆頭に、公達、女院、文人墨客、毛利輝元、加藤清正などの諸大名、その他の重臣、家臣足軽から一般庶民に至るまで、三四五例(異本では六二五例)に及ぶ治験集である。

 この書によって、金元李朱医学が初代道三と玄朔によってどのように日本化され、後世派医学のいわゆる「道三派」として流布されたかがわかり、その診察法や治療体系の概略を、臨床記録を通じてうかがい知ることができる。また『延寿撮要』『十五指南篇』などもある。

(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)