■曲直瀬流の医術について

安井広迪

 曲直瀬道三は、古河の田代三喜のもとでの長い修業のあと、一五四五年に京都に帰り、医業を開始した。彼の医学体系は、金元医学の発展型である明医学に基づいたもので、特に朱丹溪の影響の濃いものであった。このことは『啓迪集』に明確に打ち出されており、彼の思想は、その医術と共に、弟子や孫弟子達に受け継がれた。

 彼らの治療の実際がどのようなものであったのかということは、残された医案集を見ることによってある程度推測できる。

 道三の治験例は、『出証配剤』の中に見られる。ここに記載された医案の全部が彼の手になったものであるという確証はないが、内容から見てほとんどが道三のオリジナルであろう。この医案集の特徴をなすものは、疾病に伴う各症候を分析してそれらを薬物の薬効と結びつけ、処方を組み立てていることで、これらは現代の漢方的見地から見ても参考になる部分が多い。

 道三の嗣、玄朔には『医学天正記』という整った医案集がある。これには六○門三七四症例が記載され、その中には皇族、公卿、武将など多くの著名人が含まれている。ここには、当時の治療の標準的な考え方がうかがえるばかりでなく、半井瑞策や竹田定加、祐乗坊、上池院など、錚々たるメンバーの宮廷医達をむこうにまわし、見事な治療を展開する玄朔の面目躍如たる姿が見られる。

 玄朔とその弟子達の世代になると、初代道三の時代よりも多くの資料が入手できるようになった。代表的なものに『本草綱目』『万病回春』『医方考』『医学入門』などがある。これらは盛んに研究されて日本に定着した。治験例にもそれはうかがえる。

 玄朔の後継者とも言うべき岡本玄冶にはいくつかの医案集があり、そのうち出版されたのは『玄冶薬方口解』と呼ばれるもので、これは、五○門一三九例を載せる。これらの医案は一例一例が長く、なぜこの薬を用いるかという噛んで含めるような玄冶の解説が待徴的である。なお、著名人はほとんど出てこない。

 玄朔の弟子の中で、玄治と並んでその名を知られた長沢道寿や、曲直瀬正純門下の古林見宣にも医案集が残されている。道寿は、彼のもう一人の師、吉田宗恂の影響もあって古医案を大切にし、よく研究した。このことは『治例問答』『藪門医案実録』などによくうかがわれる。また六九九例を載せた『道寿先生医案集』には、補注補中益気湯、六味丸、加味逍遙散などを多用した彼の処方の傾向がよく出ている。

 古林見宜には、弟子の松下見林のまとめた『見宜堂医按』という医案集がある。見宜は豪放不覊、天才肌の人であったので、治療にもそれがあらわれた。秀才肌の岡本玄冶とは対照的な存在である。この医案集の中でも、時に意表をつく治療が見られ、さまざまな奇証をあざやかに治癒に導く様子がよく描かれている。注目すべきは、すでに『傷寒論』を用いた治療を行っていることで、その意味で彼は『傷寒論』の臨床応用の先駆者と言えよう。

 曲直瀬流の医術は、道三より数えて第三世代までは順調な発展を見せてきたが、第四・五世代で本来の形を失い始める。それにはいろいろな理由が考えられるが、ここでは割愛する。いずれにしても、三代にわたる曲直瀬流の医案を見ることは、当時の医療状況を知る上で極めて重要であると共に、現代の漢方医学を再検討する際にも大きな役割を果たすであろう。