■永富独嘯庵

 漢方中興の医傑吉益東洞をして〃陰として一敵国の如きものはこれ独嘯庵か、吾れ死せば将にこの人を以て海内医流の冠冕となすべし〃といわしめた永富独嘯庵の生涯は、僅か三十有五年の短いものであった。しかし、波乱万丈に富み、国手として古医道に、西洋医学に、儒学に、はたまた禅に、若き情熱と卓越な見識を示した彼の名声は、日本医学史上に燦然と輝いている。

 独嘯庵は名を鳳介、字を朝陽と称し、長門国(山口県)豊浦に享保十七年(一七三二)に生まれた。幼年時代より稀代の神童として郷党の間に知られた。十三歳の時、赤間関の医師永富友庵の養子となった。十四歳の時、荻生徂徠の高弟山県周南に鐘愛せられ、周南の紹介で江戸に赴き、服部南郭、大宰春台の教えを受けるとともに、幕府の奥医師井上元昌に師事している。然るに彼は心を儒学にむけ、腐敗している医界に憤激し、医術をきらい、赤間に帰郷した。しかし、医は仁術なりに徹している名医、香川修庵、山脇東洋なる者が都にいると聞いてじっとしておれなくなり、十九歳の時、京都に出た。

 山脇東洋の塾に入門し、古医方たる漢方医学と近代医学の解剖学を修得し、さらに東洋の命を受けて越前武生の奥村良筑に吐方を学んだ。その後、長崎で吉雄耕牛の門を叩き斬新な西洋医説を聞き、三十一歳で大坂に来て業を開いた。そして、『吐方考』『嚢語』『漫遊雑記』などの名著を矢つぎ早やに出版した。

 医界ではよく「鬼手仏心」という言葉を使うが、独嘯庵の言行には歯に衣きせず、自由奔放、堂々卒直に所心を述べながら、その中に大きな人間愛を感ずる「鬼語仏心」と「医匠の心」ともいうべき名利の念を絶った自然の心情とが、一貫して流れている。

 また、当時ようやく人屍解剖の始まったばかりの日本において、早くも病埋解剖の必要なこと、それの医学に益するところの多い点に着眼している。時流を抜いた識見の高さ、洞察の鋭さは驚嘆のほかない。残念ながら生来の蒲柳の質と無理がたたって、寒疝(泌尿器系の結核性疾患)を病み、明和三年(一七六六)世を去った。

(参考・寺師睦宗『若き情熱の国手、永富独嘯庵』、中野操『大坂名医伝』)