■名古屋玄医

 古医方を唱導した医家として知られるのが、名古屋玄医である。玄医は寛永五年(一六二八)京都に生まれた。字は富潤、またの字を閲甫、宜春庵に居し、晩年自ら丹水子と号した。

 弱齢から多病で足が不自由になり、またたいへんな口吃であったが、よく書を読み、学に秀でていた。経学を足利学校の徒・羽州宗純に学び、周易筮儀に長けていた。特に『周易』の本義は「貴陽賤陰」にあると会得してから、この理に基づいて、『内経』『難経』『諸病源候論』『傷寒論』『金匱要略』の諸書を一貫した医書として把握しようとした。彼は張景岳・程応旄の学説の影響下に衛気の虚を助けることを病気の本治法として、そのあとで、残った病状に対し、虚実を考慮して、標治することを説いた。玄医の代表的著書である『医方問余』とは、まず虚を治し、そのあとで余を問うの意である。

 四十六歳頃から運動麻痺となり、両手も痿痺して廃人の如くなったが、気力は少しも衰えることなく晩年まで多くの著述をあらわした。前記の『医方問余』のほか『医学愚得』『丹水子』『丹水家訓』などがよく知られる。玄医の医の師は定かではないが、著書『金匱要略註解』中に吾師・福井慮庵とある。慮庵は曲直瀬玄由の門人で、名古屋玄医の「玄」は曲直瀬玄朔の一門の名に由来する。元禄九年(一六九六)没す。享年六十九歳。墓は京都市浄福寺にある。

 古方派を字義通り解釈すれば、古医方すなわち張仲景方を宗とする学派ということになる。しかし、玄医の学説は曲直瀬すなわち後世派の学説を否定する形で構築されたのではなく、張景岳など「易水学派」と程応旄などの「錯簡重訂派」の影響下に形成されている。すなわち貴陽賤陰、扶陽押抑陰を治療指針とする独自の生命観に立って古典への回帰を説き、その線上に傷寒論があった。こうした医学思想の基盤は、当時の儒学、特に仁斎学にあると考えられる。玄医の「万病はすべて寒気の一に傷られるによって生ず」という病因論や、歴試という経験主義的実証主義は後藤艮山や吉益東洞に連なり、内藤希哲の医説には重要な部分で玄医の思想が受けつがれている。

(参考・花輸壽彦『名古屋玄医について』)