■尾台榕堂

 幕末から明治維新へかけての一大変換期にあって、古方医家の雄たり得たのが尾台榕堂である。榕堂は雪深い北越(新潟県)魚沼郡中条村の小杉家に、寛政十一年(一七九九)呱々の声をあげた。幼名を四郎治といい、名は元逸、字は士超、榕堂また敲雲と号し、通称を良作と称した。遠祖は高田藩の浪士小杉玄蕃であって、二代以後は累代医を業とし、榕堂の父は四代目にあたる。

 幼にして俊敏だった榕堂を啓発したのは、近くの円通寺の惟寛禅師である。この師は江戸駒込の吉祥寺で刻苦精励し業成って故山に就いただけあって、天下の名家とも交遊があった。中でも親交のあった儒家亀田鵬斎の推挙で、榕堂は文化十三年(一八一六)江戸の医家尾台浅嶽の門に入った。浅嶽は岑少翁の門下である。榕堂は浅嶽の門に在って医学を実地に学ぶ傍ら、亀田綾瀬に師事して経史や詩文を修めること十年。文政七年(一八二四)、母堂老い、兄も病に倒れるの報を得て急拠帰郷することになった。郷里では、この新進青年医家を遇するに厚く、患者は文字通り門前市をなした。

 しかし、天保五年(一八三四)江戸の大火は恩師であった尾台浅嶽一家を焼き、ついで逝去された悲報を得、とりあえず出府し、遺族の要請もだし難く、再度生家を離脱し、その遺子を守るために尾台良作を襲名し、学・術を兼修その大成を遂げたのであった。その証は当時最大の栄誉である徳川大将軍に単独賜謁を得て、侍医に招ぜられたことである。文久三年(一八六三)六十五歳の時であった。明治三年、七十二歳で没し、谷中三崎北町観音寺に葬られた。

 著書には『方伎雑誌』『類聚方広義』『橘黄医談』『重校薬徴』『療難百則』『医余』『井観医言』などがある。『方伎雑誌』は榕堂の全生涯にわたる医学に関する処世観、幼時の経験、治験、趣味のあり方など諸種雑多な事項が収められており、『類聚方広義』は東洞の『類聚方』に自己の経験に基づく意見その他を頭註として入れたものである。榕堂が古方に対する信念が確固不抜のものであったことは、その著作の至るところにあらわれている。

(参考・藤平健『儒医両道の仁医尾台榕堂先生伝』)