■岡本玄治

 玄治は曲直瀬玄朔の高弟として、またその女婿として、さらに三代将軍家光の侍医としてその名を知られる江戸初期の名医である。

 玄治は天正十五年(一五八七)京都に生まれた。呈譜左大臣胤三十二世の後裔とされ、先祖より代々京都に住んだという。年少の頃より典籍を学び、長じて玄朔の主宰する啓迪院に入門し、頭角をあらわした。慶長年中に家康に拝謁し、元和九年(一六二三)家光が京都に来た時に召され、その後隔年で江戸と京都に住むようになった。その間法眼に叙せられ、のち法印に昇進している。法印昇進の際、「啓迪院」を正式の院号とするようになった。家光には非常に重用され、幾多の功のあったことが記録に残されている。例えば、家光の病気の際、諸医術を尽して効験なく、玄治が薬を奉り平癒したため、白銀二百枚を賜わっている。玄冶は将軍家のみでなく、皇室に於いても篤い信頼を得ていた。

 玄冶は官医としての生活の他に、啓迪院の主宰者として多勢の弟子達の教育に当った。門人の中では『古今方彙』の著者甲賀通元とその弟景元が著名である。玄冶には『玄冶薬方口解』『玄冶方考』『家伝預薬集』など著書が多いが、そのほとんどは門人の筆録になる。それだけ多くの弟子達が彼の周辺にあったと考えるべきであろう。玄冶は正保二年(一六四五)五十九歳で死去し、渋谷の祥雲寺に葬られた。

 玄朔の娘を娶り、啓迪院を号し、道三の奥義の書を伝うる者は諸品一人なりと称せられた程であるから、玄冶の医術は曲直瀬流の最も正統とされるものを受け継いでいるが、道三・玄朔のそれと比べると若干の違いがある。その一つは経時的なもので、三代の間に積み重ねられた経験が臨床に大きく影響しているということである。もう一つは、道三から玄冶に至るまでに中国で多くの新しい文献が書かれ、それらがいちはやく輸入されて取り入れられたということである。玄冶に於いて最も影響が見られるのは、『万病回春』である。玄冶の処方解説や治験例を見ても、『万病回春』の処方が非常に多く、臨床応用への道を開くなど、業績を上げた。

(参考・安井広迪『岡本玄冶』)