■多紀元簡

 江戸時代わが国漢方医学の牛耳を執り、医学館を創立して諸生を教導し、稀覯書を校刊して重要文献を考証整備した多紀家累代の大業績は、日本医学史上の一大偉観であった。その頂点に立って考証学派を大成したのが、七代多紀元簡と、その子元堅である。元簡は字を廉夫、幼名は金松、長じて安清と称し、通称は安長、桂山または櫟窓と号した。宝暦五年(一七五五)元悳の長男として、江戸に生まれた。

 元簡は医学を父元悳に、経書を井上金峨に学んだが、幼い頃から頭脳明晰、記憶力抜群であった。三十五歳のとき、執政松平定信が元簡を呼んで医事を試問したが、元簡は直ちに医事三十余条を明らかに弁析して定信を大いに驚嘆させた。そして定信は元簡を奥医師となし、侍医に抜擢して法眼に叙した。次いで元簡は父元悳が主宰する医学館督事に就任し、四十歳の時、御匙見習となる。

 寛政十一年(一七九九)元簡は家督を嗣ぎ、将軍家斉の侍医御匙となったが、二年後、医官詮選にからむ確執から奥医師を罷免され、寄合医師に左遷、百日の屏居を命ぜられた。その間、元簡は旧著を刪定したり、『医@』の編述を行い、もっぱら後進を啓迪することを己が任務とした。文化七年(一八一○)再び奥医師に任ぜられたが、御匙とならず、その年の暮、急疾を発して急逝した。享年五十六歳。

 元簡の事績は、これを四項目に要約することができよう。その一は、医学史上の考証学派としての業績、その二は医学館の主宰者としての後進の指導、その三は古典校刊事業、そしてその四は旺盛な著作活動である。

 元簡の著書は実に多いが、代表的なものは『傷寒論輯義』『金匱要略輯義』『観聚方要補』『素問識』『霊識』『脈学輯要』『医@』などがあげられる。『傷寒論輯義』は、傷寒論の各条について中国における諸家の注解を集録考証したもので、広く中国の諸説を知る上で欠かすことができない。また『観聚方要補』は隋唐、金元、清に至るまで二一二冊に及ぶ方書から、病類別に有効処方を集大成したもので、医家、薬局の常用処方集として必備の書である。

(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)