■多紀元堅

 江戸時代後期、幕府医学館督事として運営の衝に当たった多紀家の中で、その業績の秀でた巨峰として、最も光輝を放っているのがヌ庭多紀元堅である。元堅は、字を亦柔、号をヌ庭、幼名綱之進、長じて安叔と称し、寛政七年(一七九五)元簡の五男として江戸に生まれた。多紀本家は三男の元胤が嗣いだため元堅は分家している。天保二年(一八三一)三十七歳にして、はじめて医学館の講書を命ぜられ、四年後、奥詰医師となり、毎月一回将軍家斉の拝診を命ぜられた。

 天保七年(一八三六)奥医師となり、家斉の隠退に従って西丸附となり、法眼、同十一年法印に昇り、楽真印と称した。弘化二年(一八四五)、五十一歳の時、将軍家慶の御匙となり、屋敷を賜り、浜町元矢の倉に転じ、嘉永六年(一八五三)印号を楽春院と改め、安政四年(一八五八)に没した。亨年六十三歳。

 元堅の著書と校刊事業は、特に医学館の名声を高め、目本医学史上不朽の業績として現在に生きている。著書の代表的なものは、『傷寒論述義』『金匱要略述義』『難病広要』『薬治通義』『時還読我書』がある。校刊事業は、なんといっても半井家秘蔵の『医心方』の校刊が光っている。これは元堅と本家の多紀元マが総理となって、当時の江戸医学館の考証学者を総動員して覆刻したものである。また、『備急千金要方』も校刊している。

 元堅はどんなに貧しい家から治療を請われても喜んでそれに応じた。そして薬を無償で与えるばかりでなく、夏は蚊帳を、冬は布団を、また貧窮の度に従って金銭までも恵んだといわれる。

 元堅は曲直瀬玄朔掟十六条の第十一条に「貴賤に限らず精を入るべし。いかに卑賤の者なりとも、病者をば我が身の主君と心得べし、云々」とあるのを読んでいたく心を打たれたらしい。自身の著書『時還読我書』の下巻に「延寿院玄朔の遺戒は至って深切なるものなり、げに篤志の人と思わる。貧賤の疾をも意を用いて治すべし、主君へ奉公と思うべし、といえるは最も感服に堪えたり」と記している。元堅は玄朔に劣らぬ仁術を施したのである。

(参考・矢数道明『近世漢方医学史』『医心方命名のいわれ』)