■田代三喜(たしろさんき)

 「我が邦名医多しといへども、像祀せらるるは、古来ただ鑑真と田代三喜あるのみ」(富士川游『日本医学史』)と記されているように、三喜は室町時代の末の頃、『局方』の学のみが行われていた時代に生まれ、初めて李朱医学を唱え、その学と術とを行い、関東一帯を風靡したのであった。実にわが国における李朱医学の開祖である。

 三喜は寛正六年(一四六五)武州(埼玉県)川越に生まれたとされるが、出生地は川越の北方約二○キロの越生という説もあり、現に埼玉県史跡指定になっている三喜生誕の地が越生にある。

 十五歳の時、医に志し、当時は僧侶でなければ医となれないので、妙心寺派に入って僧侶となった。
長享元年(一四八七)二十二歳の時、明に渡り、留学すること十有二年、李朱医学を学び、またその頃既に日本より明に留学して医を行っていた僧医月湖について修業している。
明応七年(一四九八)月湖の著書『全九集』や『済陰方』その他の医書を携えて帰国、一時鎌倉に居を定めていたが、後に下総(茨城県)の古河に移った。
これは古河公方の足利成氏が三喜の高名を聞いて招請したものである。
以後世間の人は「古河の三喜」と呼ぶようになった。
古河に居ること数年にして生地武州に帰り、ほとんど関東一円の間を往来して医療に従事し、済生の功績はきわめて多かった。
その間、六十七歳の時、名声を慕って、初代曲直瀬道三が三喜を訪れている。天文十三年(一五四四)八十歳(一説には七十三歳)で死去。
三喜には範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、玄淵、善道など多くの号がある。

 三喜の著書はまとまったものが少ないが、『三帰廻翁医書』(『三帰十巻書』)は三喜の代表的著書の集大成されたもので、三喜によって日本化された李朱医学の全貌を知る珍書であり、書誌学的にもきわめて貴重である。
三喜の医説の特徴は、すべての病因を風と湿との二邪に帰し、寒暑燥火も風湿の消長によって起こる現象であるとした。そして体内にあって病を受け入れるものは、血・気・痰であると解釈した。その中で特に血と気が重要であるとしている。

(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)