■和田啓十郎の巻

○明治の漢方学

 明治維新になって新しい社会が要望したのは、文明諸国と伍すだけの富国強兵と文明開化でした。そのような中で社会医学的性格が足りず、科学的普遍性に欠ける個人治療のみに終始する漢方が、世に入られなくなってきたのは当然でありますが、それよりも増して漢方に決定的打撃を与えたのは、明治政府がドイツ医学を範として医事制度を確立したことです。

 が、しかし在来の漢方医や修業中の漢方志望者は、そのまま黙ってはおらず理論闘争、比較治療を行なっては漢方のすぐれていることを力説したのですが、理論闘争にあっては古代の科学以前の表現を、こじつけたりしたものですから、かえって学界の冷笑を蒙る結果となりました。また脚気病をめぐっての比較治療にあっては、結果は漢方側の勝利となったのですが、その具体的治療方針を秘伝と称して公開を拒否したため、かえって世間の反感と嘲笑をきたして失敗に終ったのです。

 このような失敗にもめげず、最後の手段として漢方医団体三七社、一九八四名連署の請願書に、民衆五一、○五○名の賛成署名を添え、明治二四年(一八九一)第二回帝国議会に提出したのでありますが、衆議院で委員会付託までこぎつけながら解散にあい、続いて三回行なった審議にかかる直前に解散で不成功に終ったのであります。

 そして政治的には明治二八年(一八九五)の第八回議会において、漢方を開業試験科目に加えることは否決されて全く終りを告げ、漢方は時代の波に勝てず、ただ衰退の一途をたどることになったのであります。

○生い立ち

 明治初期、中期、末期と漢方が没落して行くなかで、いろいろなかたちで漢方の復活は叫ばれましたが、何といっても漢方復活の契機となりましたのは明治四三年、和田啓十郎先生が『医界の鉄椎』という本を出してからであります。この話題の書『医界の鉄椎』とは、そもそもいかなる本であるかという前に、まず著者・和田啓十郎先生について少し説明しなければなりません。

 和田啓十郎先生は信州松代に生まれ、大正五年七月八日に四五歳の若さで没しています。号は手真、堂号を治本堂と申しました。

 漢方に志した動機は『医界の鉄椎』の緒言に彼自身回顧しているように、六〜七歳の少年時代、家族に難病患者があって近郷近在の漢医、洋医といわず名医といわれる医者には、すべて託したのですが遂に治らなかった。ところがこの難病患者が、蓬頭弊衣の一漢方医によって全治を目撃するに及び、良医とは光りたる車や、診察料の高いものでもない、徒歩穿鞋の貧医であっても難治の病を治し、病人を一日も早く健康に復せしむる者であると深く脳底に刻み込まれ、もし将来医者になったならば漢方医学を勉強したいと念願するようになったということです。

 明治二四年一一月に中学を卒業、念願の医者になろうと上京、翌二五年一○月にかの有名な長谷川泰の主宰する済生学舎に入学し、西洋医学を学んだのであります。

 和田啓十郎が漢方医学に対し眼を開かれたのは、学生時代に古本屋の店頭において、吉益東洞著『医事或問』を読み、現在壊滅に瀕している漢方のよさを再認識し、医をもって業とするようになった暁は、必ずや漢方を一生の研究としたいとした由です。

 和田啓十郎が上京し、実際漢方を学んだのは多田民之助という無名の漢方医で、ここに門弟兼食客となって同居したのです。この多田氏之助は貧乏生活をしながらも平然としており、食う米がなくなると薬嚢を携えては、サテ行ってくるかと往診に出かけ、いくらかの金をこしらえて帰ってくる。そうすると弟子の方は、それで米を買ってくるといった生活だったそうですが、何よりもここで彼は治療態度とか、医者の心構えといったものについて非常に感化されたのです。

○著述の動機

 和田啓十郎は前々からの主張である漢方医学の優れていることを、身近な人に知らせるだけでは満足せず、いかに多くの人々に知らせるかと悩み、医師会の会合に出席しては意見を言ったり、また新聞や雑誌に投書をしたのですが、邪魔されて目的を達せられず、もはや著述以外に人々に訴えることはできないと、筆をとったのであります。

 しかし原稿はできても出版してくれる本屋はありません。ただ南江堂だけは自費出版するなら、販売の方は引き受けましょうという好意をよせてくれましたので、それに力を得て和田啓十郎は日常の費用を節約して二○年来の研究とその経験の集積を世に問うた『医界の鉄椎』を明治四三(一九一六)の七月、多大の犠牲をはらって自費出版したのであります。

 明治画壇のひとり中村不析画伯筆の吉益東洞の肖像を口絵として出版された『医界の鉄椎』の初版は、一四行三三字詰め、本文三三六ページからなり、一千部印刷されました。

 この『鉄椎』なる言葉は二千年の昔、秦の始皇帝を張良という人が、博浪沙で待ち伏せし、その車に正義の鉄椎を投げつけたことによって、これが発端となって正義の士が集まったことより『鉄椎』なる言葉を題したのですが、鉄椎どころか爆弾のような作用を及ぼしたのです。

○その反響

 『医界の鉄椎』がそのころの社会に及ぼしたことを知るために、当時の新刊批評欄の一、二をここに紹介しましょう。
 東京朝日新聞
「妄言せられる洋医方の偽装を剥奪し、誤解せられたる漢医方の真髄を披歴し、医弊を打破すると同時に患者の弊をも打破せんとし、併せて非自然的療法を打破せしむるための書といわば、ちと大仰なる形容に過ぐることはもちろんなれども、この書が皇漢医方のための気を吐きたる書なるは確かに断言し得べし、とにも角にも近来の快著なるには相違なし。」
 日本及び日本人
 「漢医方と洋医方の利害得失を実験上より比較論断し、彼此各々長所あり短所あり、しこうして最中また短あり、短中また長あるを説き、現代人士の一般に漢医方を排斥して、洋医方を妄信するの誤まれるを説き、漢医方のために気を吐くこと万丈。その論断するところみな著者が一○数年間の実験に出で、いささかも誣妄誇大の言を作せるを見ず、従いて首肯すべき言多し。秦皇を博浪沙に椎せし張良をもって自任し、よりて自著に『医界の鉄椎』と命名せし著者の意気や称すべきなり。」

 和田啓十郎の自費出版になる『医界の鉄椎』は、しばらくしてその反響あまりに大きいため反響篇をこれに加え、またこの本によって漢方に志をたてたうち、もっとも優れていた湯本求真の治験とその跋文を加えて、初版のおよそ二倍のぺージ数となった本を、やはり自費出版で大正四年、ちょうど初版が出てから五年目に出しています。

 このころより和田啓十郎は、多年の心労が原因になり病気となり、大正五年に四五歳でなくなっていますが、世の需要が多かったために、三版がようやくにして没後できあがりまして、出版になるやさき、あの大正一二年の関東大震災によって、刷り上りの三版と紙型もろとも喪失してしまったのです。

 その後、陽の目をみることができなかったのですが、昭和になってから改めて春陽堂が嗣子和田正系の前書きを加え、昭和七年一○月に約四○○ページに余る大冊をもって改版とされています。当時の定価が奥付きをみますと、三円六○銭、現在の価格にしますと途方もない価格になるのでありますが、ともかく『医界の鉄椎』が装を新たにして、この世に出たということが画期的なことであり、これがまた今日における漢方復興のひとつのエポックを画したといっても過言ではありません。

○長谷川泰と漢方

 和田啓十郎が医を志し上京して学んだ師である長谷川泰という人物ですが、この人は世の医学の歴史が伝えるところによると、済生学舎という私塾を建て医師試験の予備校的存在をもって自ら任じ、野にあって官僚的ドイツ医学をもっぱらとする東京大学に対して隠然たる勢力をもっていたのですが、これを医学専門学校に昇格させようと内務省に出願した際に、これを拒否されたがために、にわかに私塾を閉鎖し教百の学徒が、路頭に迷うという珍事態を招いたというエピソードがあり、明治医界を飾る豪傑であったのです。

 ところでこの長谷川泰は国家医学会その他において漢方をことごとく罵倒し、現代医学におけるドイツ医学隆盛の基を築いた恩人のように思われていますが、さにあらず、長谷川泰はもともと漢方の出であり、また漢学の素養深く、現に子孫から近年東京大学医学図書館に寄贈された愛蔵の医書をみますと、その大部分は古来の漢方の教科書的なものが、ほとんどです。すなわち『素問』『霊枢』『傷寒・金匱』などの古典であって、しかもこれに細かい朱筆をもって、ピッチリと書き入れがあるという勉強ぶりであったのです。

 しかるになぜ長谷川泰は漢方をきらったか、これは実は漢方をきらったのではなく、漢方のみにうき身をやつして現代社会に対応すべき西洋医学をボイコットしようとする長老の漢方医に対して、憤慨した結果にほかならないと思うのであります。そのひとつの証拠として漢方古典を読破しているということ。

 また長谷川泰がかつて明治の中期におきまして、西洋医学と漢方医学を論した公開討論の席上において、いわゆる明治医政すなわち西洋医学によるところの医師国家試験制度は漢方を否定するものでなくして、西洋医学の常識をもって医師の資格を得たる後は、どのような方法をもって臨床を行なおうとも、国家権力といえども医師法に抵触しないということを明言しているのです。

 また改版の『医界の鉄椎』の口絵としてかかげてありますところの中村不折が描いた吉益東洞の肖像に、師の長谷川泰の讃が書かれています。これを読むと長谷川泰は西洋一辺倒の新しがりやであり、漢方を破れた草鞋のごとく捨て去ったものと考えるのは早計です。

 長谷川泰の気骨というものは、一例をあげますと済生学舎に学んで女医の道を歩み、しかも今日における女医の地位を築いたあの吉岡弥生がこの門下に出ていることを思うとき、長谷川泰の精神的影響というもの、また漢方に対する真の理解、それが単なる同情に走った感情論でないという点を、われわれは『医界の鉄椎』を通して認めざるを得ないのです。

 さて『医界の鉄椎』ですが、初版は前にも申しましたとおりぺージ数のすこぶる少ないものでありますが、改版になりますと本論を増補し、また中篤に漫録と称する古今の医者の逸事、その評論をのせ、後篇として反響の代表的なものをあげて、いちいちこれに反論を試みています。その中において当時、軍医総監石黒男爵の演説を逐一批評した文章があります。この演説は今回われわれが、その原文を読みましても趣向するに値するものであり、当時の明治の漢方医家が、いかにこの石黒男爵の演説を受けとったかということは、思いなかばにすぎるものがあります。

 すなわち、さきほど申しました長谷川泰の論旨と同様に西洋医学の常識をもって医師の資格をとった上で、漢方であれ西洋医学であれ、それぞれ自ら信ずるところの事実をもって国民の医療を行なうものが医師たる務めである。漢方がいけない、西洋医学がよいということは二の次であると言外にほのめかしています。

○科学化の先覚

 それよりも、われわれが『医界の鉄椎』を読んで大いに先見の明のあったことを感じられます。と申しますのは、当時名古屋において絶大なる勢力をもっていました平出隆軒という人がいました。この平出隆軒の『東京医事新誌』に書かれた『医界の鉄椎』の反論文に対し、著者和田啓十郎が答弁を行なっているものがあります。

 これをみますというと、平出隆軒の諸論は実に常識的であって、自分は漢方のなにものも知らない。素人であるがゆえに愚問を提出するが、漢方でいうところの例えば葛根湯、小柴胡湯は、それほど効くものならばエキスにして、これを動物実験したデータを提出していただきたいという一事があります。

 これに対して和田啓十郎の答弁は葛根湯、小梁胡湯などの、いわゆる漢方の基本方剤のエキス化は望むえべくもない。よってこれを動物実験することはできないといっていますが、この『医界の鉄椎』が出でわずか半世紀を過ぎた今日、エキス剤はもとより漢方常用処方の大部分のものが、現代医薬並にしかも化学的不変性をもって市販されているという事実、これを漢方製薬メーカーの功績に私はとりたくありません。

 これこそ日本薬学の半世紀に及ぶ歩んだ道といいたいのでありますが、漢方を科学化したいという考えが明治末期において、すでにかような先輩たちによって考えられてきたという事実を想像せざるを得ないのであります。

○臨床的功績

 和田啓十郎の臨床的手腕について申しますと、かれは『傷寒論』『金匱要略』に深く思いを至し、その条文を実地に応用いたし、特に世人の知らなかった巴豆剤の運用にたけていたのです。今日の巴豆剤すなわちクロトン剤は、ほとんど遠物として漢方専門家仲間でも敬遠されています。

 例えばもっとも使いやすい紫円の如きは、ほとんど使いうる売品はなく、また巴豆そのものが遠物として生薬問屋にさえも標本程度しか出回っていない事実を考え、また原南陽の出世の一端が巴剤の運用にあったことを思い合わすときに、半世紀前の明治末期において和田啓十郎がイバラの道を歩みながら、しかも親戚故旧から、うしろ指をさされながらも漢方の廃虚にわけ入って見事その珠玉をつかみ出し、これを後進の湯本求真に伝えた功績は、没すべからざるものがあると考えられるのです。

 ちなみに和田啓十郎ののちは現在の和田正系博士、そのご子息和田穂並君は現在も三代続いて活躍されています。また今日の漢方隆盛の端をつくったひとつの系統から申しますと、和田啓十郎→湯本求真→大塚敬節の流れになります。現代漢方医界の壮々たる流れをみるときにイバラの道を歩んだ先輩和田啓十郎の苦心の一端である『医界の鉄椎』を、われわれは忘れ去ることはできないのです。

(石原 明)