■山脇東洋

 宝暦四年(一七五四)京都六角獄舎において刑屍体の解剖に立ち合い、実見したところを記録して、『蔵志』として世に問うた医師がいた。それが山脇東洋で、日本で初めて〃観臓〃を行ったのである。

 東洋は本名を尚徳、字を玄飛または子樹といい、初め移山と号したが、のちに東洋と改めた。通称は道作である。父は丹波亀山の人清水立安、母は駒井氏の女で、宝永二年(一七○五)京都に生まれる。実父清水立安は後に東洋の養父となる山脇玄脩の門に入り、医学を学んだ。東洋は少年の頃から秀才の誉が高く、二十一歳の時、乞われて山脇玄脩の養子となる。翌年、玄脩が没したため、その遣跡を継いでいる。享保十四年(一七二九)二十五歳で法眼に叙せられ、養寿院と号す。

 東洋の医学における最初の師は、いうまでもなく養父の山脇玄脩である。そして、その学統は曲直瀬玄朔、山脇玄心、山脇玄脩と連なる。東洋に大きな影響を及ぼしたいま一人の師は後藤艮山である。

 つまり、東洋は李朱医学を宗とする後世派の学問から出発して、のちに師の後藤艮山の医業を継承、発展させて、実証主義にもとづいた古方派医学を確立したのである。

 東洋が臨床の唯一無二の聖典と仰いだのは、張仲景の傷寒雑病論であった。その理由の一つには、著者張仲景の自序にみられる「勤めて古訓を求め、博く衆方を采る」という姿勢であった。

 宝暦四年の東洋による観臓は、当時の医学界に波紋を投じた。その一つは、人間の体内を正しく埋解するためには、人体の解剖が必要不可欠であるということ、自らの眼でなんでも確めてみる親試実験主義の方向がはっきりとここで確立されたということである。二つめは、西洋の解割書が人体の実際と合致しており、すぐれていることが確かめられ、後年の西洋医学の導入一般につながったことである。

 そのほか、東洋は唐代の代表的医書である王繧フ『外台秘要』の翻刻、永富独嘯庵などのすぐれた門人を養成するといった業績を残している。宝暦十二年(一七六二)五十八歳で没した。

(参考・大塚恭男『東洋医学入門』、森谷尅久『京医師の歴史』)