■吉益東洞

 古方派の大成者であり、「万病一毒説」をとなえ、医界をゆさぶった革命の医傑こそ吉益東洞である。東洞は名を為則、字を公言、通称を周助といった。東洞はその号である。父は畠山重宗、母は中野花で、元禄十五年(一七○二)安芸(広島県)に生まれた。吉益家はもと畠山姓であったが、曽祖父が戦乱を避けて一族の外科医吉益半笑斎のもとに身を寄せて吉益姓を名のり、その子政光の代に安芸に移り、姓を再び畠山に復したのであった。東洞の父道庵は医を業とした。

 十九歳の時医に志し、祖父の門人に医を学んだが、のち独力で張仲景とその著『傷寒論』のみを師表として研鑚につとめた。三十七歳の時、大志を抱いて京にのぼり、姓を吉益と改めた。四十四歳の時、山脇東洋を知り、以後順調に医業も伸び、東洞院に移って門戸を張った。東洞の号はこれに由来する。

 東洞の医説の主軸となるものは、〃万病一毒説〃と〃眼に見えぬものは言わぬ〃の二つの柱である。万病一毒説は、生体になんらかの理由で後天的に生じた毒が疾病の原因であり、この毒を毒薬で攻めて駆除すれば外邪も侵入することができないといい、毒を去ることが万病を根治する必須条件であるとした。また、東洞は眼に見えるもの、手でつかむことのできるものでなければ相手にしないという実証主義に立っていたから、この体内の毒も、眼で見、手でふれるものでなければならないのである。そこで、体内に毒があれば、その証拠が体表に現われ、その多くは腹診によって確かめることができるとした。これにより、傷寒論系の腹診が発達をとげた。

 著書に『類聚方』『方極』『薬徴』『方機』『医断』などがある。『類聚方』と『方極』は傷寒論、金匱要略中の主要な薬方を選び、その適応がきわめて即物的な形で与えられ、陰陽五行説などの素養がなくてもただちに便用することができるようにした。『薬徴』は、東洞が最も力を尽くした書で、後世に影響を与えた点では、この書の右に出るものはない。東洞は安永二年(一七七三)七十二歳で没し、東福寺荘厳院に葬られた。

(参考・大塚敬節『近世前期の医学』、大塚恭男『東洋医学入門』)