■湯本求真の巻

○今日漢方界の基礎築く

 漢方が没落し衰退していった明治の末期に、敢然と立上がって漢方復活の叫び声をあげた先駆者和田啓十郎の跡を継いで、今日の漢方医学界の基礎を築き上げたのは、湯本求真先生であります。(以下敬称略)湯本求真は、江戸時代に築き上げられた日本の伝統的な漢方医学の立場から組織づけし、復活させるという非常に困難な大事業を完成した人で、まさしく日本における現代漢方医学のパイオニアということができるのでありましょう。

 湯本求真は『皇漢医学』全三巻を著わして、漢方医学のすぐれていることを、体系的に明らかにし、かつその医業を通して身をもって証明したわけです。そして日本国内では、大塚敬節先生はじめ、多くの医学者がその門下に集まり、さらにそれを推し広め発展させてきたのです。しかし、湯本求真の影響力は、それだけにとどまらず、遠く中国にまで名声をはたせたのであります。かつて中国の国民政府は漢方医の禁止を決議したことがありましたが、かの地の漢方医は、湯本求真の『皇漢医学』を示して、漢方のすぐれていることを説き、先生の科学的研究を高く評価したといわれています。また清水藤太郎博士が中国を旅行中、病気にかかり、北京で施今墨という一流の名医に治療をうけたのですが、湯本求真の弟子ということを名刺に書き添えて出したら、多くの患者が待っていたのに、すぐ診療室に通され、そのうえ、受付で払った診察料まで返してくれたといういんぎんさで、清水博士がすっかり感激した……という話がありますが、これも湯本求真の影響力の大きさを物語る一例かと思います。

○その生い立ち

 湯本求真は明治九年三月二一日、石川県の寒村で生まれました。本名は四郎右衛門といい、明治三四年に金沢医学専門学校を卒業して得業士の称号を得たのであります。翌年栃木県の県立病院の医員となりましたが、一年ばかりして、生まれ故郷に帰り、石川県七尾で開業するかたわら、七尾娼妓病院および七尾の警察医を兼任しておりました。やがて明治三七年日露戦争が起こるや、日本赤十字社救護班員を志願し、第九師団司令部より徴兵副医官の待遇を受けたのです。日露戦争が終わった明治三九年春には、その功によって勲六等に叙せられているのです。

 このころ湯本求真は東京に出て、東京府下淀橋町(現在の新宿駅の裏)に開業し、また分院を浅草に開いたのでありますが、しばらくして故郷に立ち帰り、そこで開業しています。その時に疫痢のために長女をなくしたのでありますが、このことが湯本求真が現代医学に対する信頼の念を動揺させた初めで、ちょうどこのとき和田啓十郎の『医界の鉄椎』を読んで感激し、以来漢方医学の研究に没頭したのであります。この間の事情は『皇漢医学』の序文に明らかにされておりますが、湯本求真の盟友であった、奥田謙蔵先生が「湯本君の若い時は、″乃公出でずんば蒼生を如何せん″の気概に燃えていた」といわれていますように、よほどの覚悟がなければ、世をあげて欧米医学を讃歌し、漢方医学がどん底の時代に、この至難の大業に取組むことは出来なかったものと思われます。

 しかし、和田啓十郎と湯本求真の関係は、あたかも本居宣長が松阪から一歩も出ずに、その師賀茂真淵に書簡で教えを乞うたようなもので、ほとんど大部分が文通によってその疑問を質した、とされています。湯本求真は明治の末年に神戸に移り、初めて漢方を標榜して開業したのです。そして大正年間に至りまして『臨床応用漢方医学解説』なる単行本を出版したのです。

○『皇漢医学』を自費出版

 大正九年になりまして再び東京に出て、滝野川で開業し治療のかたわらそれまでの経験をまとめ、これをひとつの本にして現代医学の裏付けのもとに滅びゆく漢方を現代医学の社会に再現しようとして心血を注いで書き上げたのが、昭和二年に出版した『皇漢医学』の第一巻であります。翌年になりまして『皇漢医学』第二巻、第三巻が続いて脱稿、出版となったのです。このころ湯本求真の『皇漢医学』に感激してはるばる土佐から出てまいりましたのが、大塚敬節、通称〃けいせつ〃先生です。

 そのころ、湯本求真の診療所兼住宅は、平家建ても小さい古ぼけた家で一日に五、六人も患者がくると、きょうは忙しかったなあと、いうほどの閑散さであったといわれます。家には女中も書生もおかず、開業医というよりは学者のようなつつましい生活で、この中から自費で『皇漢医学』を出版されたわけであります。湯本求真は豪放磊落、斗酒なお辞せず、竹を割ったような男性的な性格の持ち主で、おべっかやお世辞が大きらいであったそうです。門弟たちの質問には「証に随うだけだ」といって細かいことはいっさい教えず『傷寒論』と『金匱要略』にもられた張仲景の医学を解説して、治療の法則を述ベ、これに添うるにわが国の先輩の治験をもってしたという有様でした。

 晩年には、お酒のため体をこわされましたが、意気は衰えず、「一雄(長男)が医師になったら、わしは天下を漫遊して難病痼疾を治して歩くのだ」と言って皇漢医学の最高責任者をもって任し、事実北海道から九州まで足跡あまねしといった状態でした。

○一貫して説を曲げず

 湯本求真の健康を心配して「酒をやめてほしい」と門下の者がお勧めしたことがありましたが、「酒はH血をかす力がある。だから酒で通聖散H血を動かしておいて、駆H血剤をのめば、H血がよく盪滌される。酒だけをのむとわるいが、駆H血剤と一緒にのめば、酒は駆H血剤の効を助けることになる」としりぞけられたといいます。

 また、脳出血後の症状をみて附子剤をのむようにと、大塚先生からお勧めしたときには「わしは決して陰虚症にはならぬから、どんなときでも、死ぬまで大黄、芒硝で攻めてくれ」とおっしやられたそうです。また、ある漢方の大家が外科で手術して逝去したのを聞かれ「死ぬときは、見苦しい格好はしたくない。注射など決してやってはならんぞ」とつね日ごろからいっておられたとも申します。昭和一九年の秋、九州に往診を頼まれたその帰り、姫路の旅館におきまして、急性消化器病を発し、急逝されたのですが、このときも、医者を呼ぶことをなかなか承知せず、自分の容体を「これは真熱仮寒である、本当の虚寒証ではないから、大黄、芒硝、石膏で攻めてよい」と言われたそうであります。このような一連のお話に、湯本求真の真面目躍如たるものがあるのでありまして、終始一貫、平素の主張を貫いて生き抜かれた、古武士的な風格の持ち主と言うことができるでありましょう。また、このように自分の信念を死に至るまで貫くという、湯本求真のような硬骨漢でなくては、とても漢方医学の復興などという至難の大事業はなかなかできなかったともいえるのでありましょう。

○求真の功績

 湯本求真がいかに漢方に対して功績を上げたかということは、実に私財を投げ出して、和田啓十郎の跡を継ぐべく現代的解釈のもとに世に問うた力作、現在燎原書店よりレプリントされております『皇漢医学』をみても十分知られるのであります。

 その『皇漢医学』の第一巻総論の中におきまして、当時西洋医学を学んだ医者が繁用しておりましたいわゆる強心薬=カンフルは真正の意味における強心薬ではなく、やせ馬にムチ打つがごとき、また線香花火のごとく一過性の効にしか過ぎないことを強調し、ついでH血というものについて漢方医学的のみならず、西洋医学的両見地からの解釈をなし、その治験例をあげて説明しているのです。

 また当時西洋医学者が絶対視していました細菌病理学説についても、いかに伝染病といえども内因の存在という前提なくしては決して起こり得ないし、また発現した伝染病に対しても百人百様、千状万態の症状を呈し、しかもその病原体を殺滅するにしても生体に何の副作用も与えずにこれを行なうことはまったく不可能であり、その発現する病状とその病者の体質および病毒の所在に従って細菌性毒素を駆逐すべく、『傷寒論』における汗、吐、下の攻撃療法の適切なることをあげています。

 続いて漢方剤は単味のみの薬効を期待するのではなく、複合の相乗作用の発現を期待するもので、今日において薬学でシナジズム効果と称しているものをあげています。しかも漢方の配合は数千年間の経験により帰納した非常に巧妙を極めた配合であるため、一湯にてよくあまたの能力を発揮し、これは、病名治療一辺倒に終始する現代医学の虚をついたものであり、そのはなはだ簡であり、しかも統一連絡ある配剤の妙は、私がかねて書きました「おでんの味」に共通するものがあります。

 湯本求真の立場は吉益東洞、尾台榕堂の古方の立場に徹しているのですが、西洋医学を身につけた医師として漢方を実際に応用したという特殊な立場を考慮いたしますと「余の創方」と自ら自負するところのもの、つまり古方の精髄に自らの経験を加えたものをわれわれが否定することはできないと思います。

 以下それら『皇漢医学』の中において湯本求真が「余の創方なり。創始なり。」と明言したものについて述ベたいと思います。

○求真の創方

 まず初めは、第一巻の八九〜九○ページにかけて記載されております桂枝加半夏場がございます。『皇漢医学』の記するところによりますと、湯本求真の創方による桂枝加半夏場は桂枝湯に半夏六・○グラムを加えたものです。

 主治としてかかげられたものは「桂枝湯証にして咽喉痛するもの、あるいは咳嗽するものを治す」と明記し「本方は余が師(すなわち張仲景)の桂枝湯、半夏散及湯の方意に基きこれを合したるものなり」と明記しています。

 猪苓湯の条下におきまして、猪苓湯に鱠署m一○グラムを加えた猪苓加鱠署m湯があります。主治は猪苓湯証にして排膿止まざる者を治すとなっており、これこそ湯本求真がかの娼妓病院において苦心をなめたところの淋疾性疾患の常用方であったと考えられるのです。

 葛根湯の附方として葛根加鱠署m湯というのがあります。これは葛根湯のなかに鱠署m一〇〜一九グラムを加えたものであり、これの主治として「葛根湯証にして、項背強急劇甚なるもの、あるいは関節腫痛するもの、あるいは排膿するもの、あるいは疣贅あるものを治す」と明言しています。

 湯本求真が鱠署mの加味にすこぶるたくみであったことは、次に申します葛根加鱠
仁湯をみますとはっきりします。すなわち葛根湯に朮七グラム、鱠署m一○グラムを加えた葛根加鱠署m湯は、コレラまたは腸チフスの劇症の場合に欠くことのできないものでして、この処方はさきほどの経歴で示すとおり、湯本求真が日露戦役に従軍したときの経験によったものと思われるのです。

 以上のほかに、麻黄湯に桔梗六グラムを加えた麻黄加桔梗湯、また大柴胡湯に厚朴五〜一二グラムを加えた大柴胡加厚朴湯などがあります。この二方の主治も前と変わらず、説明には、何々湯証にして何々の生薬の証を兼ねるものと、はなはだばく然とした表現を用いているのですが、ここが湯本求真の本領でして、その詳細は『皇漢医学』三巻をひもといてみますときに、よくわかるのです。すなわち古今の論説を縦横に駆使し、一味の生薬といえども、その証をないがしろにしないところに、湯本求真の面目躍如たるものがあるのです。

 第二巻少腸病篇に第二黄連解毒湯及丸と命名された処方があります。これは、かの『外台秘要方』に王Zが記載した黄連解毒湯の変方で、その処方内容は、黄連、黄ソ、梔子、黄柏各一グラムで、解説によりますと「三黄瀉心湯中の大黄を去って、梔子柏皮湯去甘草にもとめるものであって、前方と異なるところは大黄の有無いかんにありて、黄柏の存否に関せざれば本方は虚証を治すものである」と要約しているのです。この類方として通常の黄連解毒湯に大黄を加えた方剤がしばしば活用されています。

 また兼用方で吉益東洞以来のいわゆる古力家の瀉剤に属するなかで解毒散という処方があります。これは川ス大黄各二○グラム、甘汞四グラム、金硫黄五グラムを粉末として混和し、一日量一〜一・五グラム分服するもので、これは恩師である和田啓十郎の創方のよしで、明治のことですから「梅毒性の慢性疾患の諸症を治すに奇効があり、これが類方と異なるのはその作用がきわめて温和であって陰陽虚実の各証に通用するものと水銀中毒性の口内炎の如きものが発現しない」と特色を述べています。

 また伯州膏というものがあります。これは伯州散、黄柏末を等分に混したものに硼酸軟膏適宜で練和し外用に供するもので、解説によりますと「本方は余の新製にしてこれを創傷面および麋爛潰瘍部に貼用するときは能く鎮痛止血、排膿的に作用し、且つ良性肉芽の新生を促進す」と明記しています。しかし、今日におきましては、硼酸軟膏よりは軟膏基剤としての親水軟膏に伯州散それにベルベリン末を加えて用いた方が簡便であり、効果も確かであると私は経験しています。

 以上述べましたように、湯本求真の創方は数多くありますが、その高弟大塚敬節先生にうかがいますと湯本求真の常用処方はわずかに一○数方で、附子剤はほとんど使用せず、瀉剤をもってあらゆる難病を治療していたということです。

 今日われわれは簡便に入手し、また使用できるエキス剤の恩恵にあずかっていますが、昭和の漢方の基礎を築いた湯本求真の苦心の作『皇漢医学』は必読の文献であり「余の経験によれば」と記してある処方および治験例を再三熟読玩味して漢方の発展を期さなければならないと思います。

(石原 明)