■日本における中国伝統医学の流れ
<明治以前>

大 塚 恭 男

はじめに

 日本における中国伝統医学(漢方)の歴史は次の5分節に分けて考えると便利である。

 1)初期(5〜15世紀):中国医学の忠実な模倣より独歩の試みまで

 2)後世派(16〜19世紀):金元医学の影響

 3)古方派(17〜19世紀):中国医学の日本的展開

 4)西洋系医学との共存(16〜19世紀)

 5)漢方の復興(20世紀)

 以上のうち、5)については別に記されることになっているので、1)よリ4)までをごく簡単に述べてみたい。

初期

 中国医学は5世紀頃より日本に伝えられたといわれるが、7世紀の初めに聖徳太子が隋の煬帝に書簡を送り、ついで遣隋使、遣唐使があいついで中国に渡り、また中国からも日本へ渡来した鑑真和上などがあって、中国文化は急速に、且つ熱狂的に日本に迎えられるに至った。

 『万葉集』に「沈痾自哀文」を遺した山上憶良も遣唐使の1人であったが、文中に扁鵲、華佗、張仲景ら多くの中国の名医の名を掲げている。

 753年には
鑑真が来日し、黎明期の日本医学に大きな影響を与えた。

 756年には聖武太上天皇が没し、その七七忌に多くの宝物とともに種々の薬物を東大寺の大仏に供薦した。これが現存している
「正倉院の薬物」で、当時の医療を知るうえに大きな役割をはたしている。

 984年には、丹波康頼により
『医心方』30巻が著わされた。現存する本邦最古の医書であり、全編が先行する中国医書よりの引用から成っている。しかしながら、出典とされている中国医書の相当数が既に散佚してしまった現在、本書の占める医史学的価値はきわめて大きく、また引用とはいえ、厖大な中国の資料の中から本邦の風土や民族性などの特殊性を考慮して適切な撰択を行い、『医心方』の文脈にまとめあげた功績はきわめて大きい。

 その後、栄西の『
喫茶養生記』、梶原性全の『万安方』『頓医抄』、有隣の『福田方』、坂浄運の『続添鴻宝秘要鈔』などの重要な書物が著わされ、独歩への道を模索しつつ後世派の時代を迎えることとなるのである。

後世派

 後世派とは中国の金元時代に確立された医方を宗とする学派である。

 後述の古方派が後漢の張仲景の医方への回帰を唱えたところから、その名を得た。その祖は明に12年間留学して、1498年に帰国し、金元の医方、特に李杲(東垣)、朱丹溪のそれを伝えて一家をなした田代三喜である。

 そして、田代三喜の門に学んだ曲直瀬道三とその後継者である曲直瀬玄朔により後世派は確立された。金元医学は陰陽五行説の潤色を強く受けた思弁的傾向の強い医学であったが、臨床の実際的な面においても新しい発明が少なくなかった。

 曲直瀬道三とその学統につながる日本の後世派はどちらかというと実際的な面をとりいれ、理論に走ることは少なかったが、末流になると観念の遊戯に堕する傾向もあらわれ、これらに対する反撥として古方派が登場することになるのである。

 後世派で著名な医師は、上記のほかに曲直瀬玄朔、岡本玄冶、長沢道寿、香月牛山、福井楓亭、津田玄仙などがある。

古方派

 古方派とは字義からすれば古方すなわち張仲景方のルネッサンスを標傍した学派である。

 金元医学のややもすれば空理空論に流れる弊を排し、実証主義的な張仲景医学に帰れとするのが彼等の主張であり、これは儒学で宋学に対して古学が興った経緯と似ている。しかし、古方派に数えられている人々の張仲景方に対する態度はさまざまで、必ずしも張仲景を一方的に尊重したとは思われない。

 一般には、名古屋玄医を以て古方派の祖としているが、最近の研究によれば、玄医の学説は後世派のアンチテーゼとして作られたものではなく、むしろ金元医学の延長線上にある張景岳、薛己、程応旄ら明清の諸家の影響を受けつつ、『
素問』から『諸病源候論』に至る中国の古典を基礎にして確立されたもので、張仲景方を尊重したことは事実であるが、その経緯は後藤艮山以下の古方家とはかなり異質なものであるという。

 しかし「歴試」を説く経験主義的実証主義は古方派に共通するところで、彼を古方派の先駆者とする説を訂正するにはあたらないのではないかと考える。

 後藤艮山は一気留滞説の主唱者として知られている。従来、中国の病因論の主流は感情失調などによる内因、寒暑など外界からの侵襲による外因、食餌その他生活上の不節制などによる不内外因の三因説であったが、艮山は、これらが病因たり得ることは認めた上で、発病を決定するのは宿主の防禦機転である気の機能に破綻が生じたか否かによるという新しい考え方を提唱したのであった。

 艮山もまた張仲景方を特に尊重したとは言いがたい。彼は民間薬、灸治、温泉療法などさまざまな療法を駆使したが、張仲景は中国の数人の尊重すべき医師の一人として評価したに過ぎない。

 彼を古方派とする理由は、宋代以後の陰陽五行説の潤色による思弁的な医学理論を排したことと、門弟の山脇東洋に進んで解剖の必要性を説いた実証的精神である。

 艮山の門弟である香川修庵は艮山以上に徹底した考えをもっており、『
傷寒論』までも批判の対象とした。同書が太陽、少陽、陽明、太陰、少陰、厥陰の六病に分けて論じていることを観念の産物としたのである。

 その結果、「我を以て古となす」という傲岸ともとれる表白をするに至るのである。しかし、彼の主著である『
一本堂行余医言』、『一本堂薬選』は彼の中国古籍に対する並々ならぬ知識と理解を示しており、その舌鋒の鋭さとは裏腹に、彼の理論も畢竟これら先行する学問の延長線上にあるといわざるを得ない。

 艮山のいま1人の有力な門人である山脇東洋は艮山の示唆を受けて、日本で最初の人体解剖を行い、その記録を『
蔵志』に遺したが、古方派の群像中では最も穏健で包容力に富み、また張仲景方を尊重した点でもきわだっている。

 しかし、必すしも古方にしばられず、「いにしえの道に従い、今の方を採る」の言葉のように、実証的な張仲景の精神を尊重しつつ、新しい医方にも意欲を示した。その門から蘭学にも深い理解を示した永富独嘯庵が出、さらに独嘯庵の門からは蘭学に走って大をなした小石元俊がでたのも理由のないことではない。

 古方派の中でも、その影響カの大きさで抜群なのは吉益東洞であろう。東洞は有名な「万病一毒説」を唱えた。

 つまり、あらゆる疾病の本態は後天的に形成された1種の毒である。つまりmodalityはただ1つであるというのである。しかし、現実にさまざまな病気が存在するのは、その毒の存在場所、つまり、site of regionが異るためであるというのである。

 この考えは、1種の疾病局在論であり、中国の伝統的病理論とはきわめて異質であり、むしろモルガーニ以降の西洋の病理論に一脈通ずるところがあるように思われる。東洞はこの考えの上に立って張仲景の主著『
傷寒論』『金匱要略』を換骨奪胎して、処方別に編録した『類聚方』を作った。

 これにより、古典の三陰三陽による文脈を否定して、各処方の本来の適応を追求し、これを以て、いうところの毒の位置を追求しようとしたのである。そして、更に一歩を進めて、当時の薬物の最小単位である個々の生薬についても同じ手法で追求し、『
薬徴』を著わした。

 また、臨床の実技の上では、腹診法を重視したが、これが後代の日本の漢方の1つの大きな特徴となり、現在に及んでいるのである。

西洋系医学との共存

 西洋系医学は16世紀後半より日本に導入された。当初は、主としてポルトガル、スペイン系のそれで西日本、特に九州地方に影響を及ぼしたが、大きな勢力となるには至らなかった。これは南蛮医学と呼ばれ、特に外科領域で新しい技法をもたらした。

 しかし、江戸幕府の成立、それに続く鎖国政策により、西洋系医学は次第にオランダ医学にとって代られた。これは当初紅毛医学と呼ばれたが、南蛮医学と特に大きく変るところはなかった。

 西洋系医学が大きな勢カとなってきたのは、18世紀後半のことである。

 1774年の杉田玄白らによる『
解体新書』の刊行は最初の大きな里程標とみることができる。玄白のはかに、前野良沢、大槻玄沢、字田川槐園、榛斎、榕庵、桂川甫周らの多くの俊秀が輩出して、我が国における西洋医学導入の黎明期に大きな貢献をした。

 従来、この時期の漢蘭ないしは東西両医学の関係を論ずるにあたって敵対関係のみを強調する傾向がみられたが、これは誤りで、少なくとも18世紀末までは両者間にきわだった対立はみられなかった。

 杉田玄白が中国の『
外科正宗』に感銘したり、大槻玄沢が両者の長を採り、短を補うといういわゆる「採長補短説」を唱えたり、宇田川槐園記による本邦最初の西洋内科書である『西説内科選要』(1792)に江戸医学館の多紀元簡が序文を草したりしているのはその例である。

  しかし、19世紀に入ってからは、東西両医学の対立は日を追って烈しさを加え、上記『
西説内科選要』の改版では多紀元簡の序文もはずされることとなる。

 劣勢の漢方に決定的ともいえる打撃を与えたのは1849年の牛痘法の導入であった。

 ジェンナーが発見してより約50年を経て日本に導入されたこの新技法は、当時死病と恐れられていた天然痘に対する東西両医学の能カの差を示してあまりあるものであった。

 そして、やがて明治維新に入っていくこととなる。

 なお、一言しておきたいのは、江戸中期以降のいわゆる漢蘭折衷派といわれる人々の活躍である。

 その代表的な例としては、古方派の吉益南涯の門に学び、のち蘭方に走った華岡青洲が、漢方処方の示唆により全身麻酔術を行い、世界初の乳癌手術(1804)に成功したことがあげられよう。

 また、江戸時代に来日した西洋人医師の中で、漢方に興味を抱き、これを西洋に紹介した例も少なくない。

 ウイレム・テン・ライネ(1674〜77在日)は、『
関節炎論』(1683)において、針灸や葛根、川スなどの生薬の薬能について紹介している。

 また、エンゲルベルト・ケンペル(1690〜92在日)も『
廻国奇観』(1712)、『日本誌』(1727)において、日本の医学や生薬についての紹介を行っている。

 更にカール・ぺーダー・チュンベリー(1775〜76在日)にも『
日本植物志』(1791)、『日本動物志』(1822〜1823)などの著書がある。

 幕末の蘭学者に絶大な影響を与えたフランツ・フィリップ・フォン・ジーボルトは前後2回にわたる日本滞在中に多くの日本人医師の指導にあたったが、帰国後、大著『
日本』(1832−52)ほかの著書により、日本の医学や生薬についての紹介を行っている。

むすび

 千数百年にわたる明治以前の日本の医学の歴史をごく簡単に紹介してみた。

現存する本邦最古の医書『医心方』が刊行されて、恰度1,000年目にあたる今日、『医心方』が単なる文献的興味にとどまらず、実際の臨床の上からも見直される気運になってきたことはまことに喜ばしい。