漢方は古代の中国(西歴二百年頃、後漢の時代)に発達し完成をみた医術(医学体系)に基礎をおいているが、わが国に伝わってからは、長い歳月のあいだに貴重な経験を加えて「日本の伝統的臨床医学」として大成した。
日本へは五世紀頃、朝鮮を経由して渡来したが、中国の医学はその後も遣隋使や遣唐使の僧侶たちによって引続き導入された。もちろん、当時の社会においては、この医術も貴族や上流社会の専有する医学にすぎなかったといえる。が、鎌倉時代になって、ようやく一般大衆のなかに浸透しはしめ、さらに江戸時代中期にいたって、日本人にもっとも適した医学として完成したのである。
漢方というよび名は、江戸末期から明治初期にかけて「蘭方〔ランポウ〕」とよばれた西洋医学のオランダ医学と対照区別するために使われたことばで、「方」の字は、方技〔ホウギ〕、または方術〔ホウジュツ〕の方であって、昔のことばで「医術」という意味である。
そして、江戸時代の医者、なかでも「古方〔コホウ〕」とよばれた流儀の医学を学んだ医師たちが積極的な治療方法をつくりだした。
この日本の漢方のバック・ボーン(中心となる支柱)を構成するのは『傷寒論〔ショウカンロン〕』という古代漢民族の経験をまとめた医学書であるが、その内容は非常にこまかいところまで、きちんと整理された「治療学」書である。まず、世界に類例のない貴重な文献であると同時に臨床医学のテキストでもある。
この傷寒論は、もともと「急性の熱性病」について、その経過と治療法を説いたものであるが、日本では、多くの先達たちが、簡潔ではあるが、難しい古代漢文で書かれた同書をよく消化吸収し、また応用技術を拡大して「慢性病」にも使えるようくふう研究してきたところに日本漢方の独自性と特長が生まれた。
傷寒論を主軸とする漢方のほかに中国の金・元時代の医学を中心としている「後世派〔ゴセイハ〕」とよばれる流派もあるが、これについては別章で説明しよう。
近年、中国や香港、台湾、朝鮮などからの医学が紹介され研究されている
が、日本の漢方とまったく同一のものとはいえない。これらは、いずれも伝統のあるすぐれたものには違いないが歴史的また民族的にみても、その治療方法や使用する薬物の種類、分量に多くの相違点があるのも当然といえる。
中国系の医学は「中医学〔チュウイガク〕」朝鮮系の医学は「東医学〔トウイガク〕」または「漢医学〔カンイガク〕」などとよばれ「漢方」という呼称は日本にだけしかないものである。
日本の漢方の特長をもう少しあげると、処方中の生薬分量が少なくてすみ、かつ効果を発揮できる点であって、このことは、天然資源の少ない日本に適している。今日、香港や台湾で行なわれている治療では、同名の処方でも日本の二倍から数倍の生薬が一日量として使われている。
また、日本で常用されている漢方処方のなかには、和方〔ワホウ〕ともよぶ独特の内容をもつものがある。これらは、すぐれた先人たちが工夫し体験して編み出した処方で、古典からヒントを得たと思われるものもあるが、まったく独創的な優秀処方もあって自慢できるものである。(本朝経験方という)
こうした傾向は、現代の日本漢方研究者(ことに漢方臨床の専門医)にもうけつがれ、くふう改良創製された処方が数多くあるという点で、国民医療の上からも有益かつありがたいことといわねばならない。そして、人員こそ多くはないが、生薬治療専門の漢方専門医が、今も日夜研究を続け、日本漢方の核心となっている貴重な事実も見落とすことはできないだろう。
粉末あるいは錠剤となっているエキス製剤が「生薬の煎じ薬」と大差ない治療効果を発揮するなど漢方薬の普及に貢献しているのはみとめられても、エキス製剤だけ使用の漢方治療ではオリジナルなものはつくり得ないし、本当の意味での漢方薬とはいえない。これは、あくまで漢方に似た製剤であってエキス剤をもって漢方薬と考える人が将釆増加しても、漢方の原点が必ず生薬治療にあることを忘れないでほしい。
このことは、医師・薬剤師はいうまでもなく、服用する人たちも、いつも念頭において病に対処してほしい。
エキス製剤を正しく使うには、後述の漢方的診断法に基づき「証」を把握してから用いるべきで、最近の西洋医学の病名だけで使おうとするのは正しい漢方治療法とはいえないのである。
漢方の基礎となった中国古代医学は、漢から三国六朝〔リクチョウ〕時代頃にはすでに完成したといわれている。この時代に、今もなお、漢方における必読書として研究され続けている、権威ある医学の古典『黄帝内経〔コウテイダイケイ〕』『傷寒論雑病論〔ショウカンザツビョウロン〕』、『神農本草経〔シンノウホンゾウケイ〕』ができあがった。
有史以前の日本の医学にかんしては、考古学や人類学を通して、わずかにその一端をうかがうのみである。
わが国には、中国の古代医学は、はしめ朝鮮を経由してはいってきた。
奈良時代(710年から約70年間)の医療は主として僧侶によって行なわれた(看病禅師〔カンビョウゼンシ〕という)、すなわち僧医である。僧以外は渡航を禁じられていたので、新しい随・唐の医学は僧の手によって輸入された。
平安時代(974〜1192)になって、医療は医師の手でも行なわれるようになった。
鎌倉時代(1192〜1333)になると医学は貴族の手から離れ、それまでの随唐模倣の医学は力を失い、ようやく日本人向きの実用医学となっていった。鎌倉時代から室町時代にかけて主流だったのは、宋医学思想をとりいれた仏教医学で、再び僧医が活躍した。著作としては、二回入宋した栄西〔エイサイ〕禅師の『喫茶養生記』、浄観房性全〔ショウゼン〕の『頓医抄〔トンイショウ〕』、『萬安方〔マンアンポウ〕』がある。
室町時代(1336〜1573)は中国では明の時代で、明医学は金・元時代の医学の延長にすぎなかった。僧医のほかに、産科、外科(金創医)、眼科など専門医師が現われた。竹田昌慶〔タケダショウケイ〕、坂浄運〔サカジョウウン〕、月湖〔ゲッコ〕、田代三喜〔タシロサンキ〕などは明に留学し、中国の医学を日本に伝えた。ことに田代三喜の李朱〔リシュ〕医学(後世派の医学)をわが国に伝えた功績は大きい。
京都に医学校「啓迪院〔ケイテキイン〕」を建てた初代の跡をうけつぎ、数多の門弟を養成した二代目曲直瀬道三〔マナセドウサン〕(玄朔〔ゲンサク〕)も江戸初期の後世方の名医であった。その門下には、徳川家康、秀忠、家光に仕えた、秦宗巴〔ハタソウハ〕、岡本玄冶〔オカモトゲンヤ〕、野間玄琢〔ノマゲンタク〕、井上玄徹〔イノウエゲンテツ〕ら俊秀がいた。
日本における中国医学の変遷のなかで、「証」を確立して冶療にあたるべきであるとはじめて主張したのは、田代三喜であり、さらにそれを明確にしたのは曲直瀬道三である。すでに三喜の師、月湖は『類証弁異全九集』を著わしご三喜は『弁証配剤』を、道三は『察証弁治啓迪集』をそれぞれ著わしている。後世派は「証」の基礎を『黄帝内経』から、用いる処方は主として金元医学などから採用した。
日本の後世派医学は古方派医学に先んじて、わが国に実証的医学の基礎をつくり、随証治療の必要性をとなえ、日本化された、いわゆる道三流医学を広め、やがて古方派や考証派、折衷派などの生まれる基盤となった。
道三流ではないが、同じく李朱医学派の医師として活躍し、その著作が臨床家に尊重された者に元禄以後の香月牛山〔カゲツゴサン〕や加藤謙斉〔カトウケンサイ〕がいる。
また道三流の門を出て、師説とは別に一家を成した医者の草分けは、饗庭東庵〔アエバトウアン〕(玄朔の門下、その弟子に味岡三伯〔アジオカサンパク〕などがいる)と林市之進〔ハヤシイチノシン〕(曲直瀬正純〔マサズミ〕の門下)だといわれ、黄帝内経や難経などの古典をよく研究し、中国の劉張派医学(劉河間〔リュウカカン〕・張子和〔チョウシカ〕の流れを汲むもの)の医方を宗としたので、後世別派とよばれた。
明の喩喜言〔ユカゲン〕が『傷寒尚論〔ショウカンショウロン〕』を著わしてから、この一派は勢力をまし、次の清の時代になると李朱医学批判が高まって、傷寒論の古医方に帰れとさけばれ、これが日本にも反映して、傷寒論の実証性の再認識が行なわれ、これを行なう医家が現われてきた。甲斐の永田徳本〔ナガタトクホン〕(1513〜1630)は先駆者であり、ついで京都の名古屋玄医〔ナゴヤゲンイ〕(1628〜1696)が古医学への回帰を、主唱し、古方派がおこった。
後藤艮山〔ゴトウコンザン〕とその弟子香川修徳〔カガワシュウトク〕、山脇東洋〔ヤマワキトウヨウ〕、松原一閑斉〔マツバライッカンサイ〕は古方の四大家といわれた。後藤艮山(1659〜1733)にいたって、古方派は強力な勢力となり、「万病は一気の留滞によって生ずる」と主張した。艮山に著書はないが、門人の筆記した『師説筆記』という写本がある。
香川修徳(1683〜1755)は艮山の弟子で、徹底した実証主義者であり、自分の経験に基づく、自己の正しいと信ずる医学体系をつくろうとした。著述をこのみ、『一本堂行余医言〔イッポンドウギョウヨイゲン〕』、『一本堂薬選〔ヤクセン〕』などの大著がある。
山脇東洋(1705〜1762)も艮山の弟子で、古方の泰斗といわれたが、傷寒論の処方だけではなく、『千金方〔センキンポウ〕』、『外台秘要〔ゲダイヒヨウ〕』などの処方も用いた。1754年人体解剖を行ない、その記録を1759年『蔵志〔ゾウシ〕』として著わした。その門人には漢蘭折衷派に属する永富独嘯庵〔ナガトミドクショウアン〕がいる。
吉益東洞〔ヨシマストウドウ〕(1702〜1773)は広島で生まれ、はしめ金創医であったがのち古医方を学び、京都に出て44歳のとき、東洋の推挙で世に出た。
東洞の医説は「万病一毒説」「方証相対説」「天命論」など独特のもので、親試実験して、『類聚方〔ルイジュホウ〕』、独自な薬物書『薬徴〔ヤクチョウ〕』、古方に則した実証的な『方極〔ホウキョク〕』など多くの著作を著わした。
古方が盛んになるにしたがって、その反動として折衷(中を定める、すなわち古方と後世方の両者を調整し、その中間をとる)派が江戸で発展した。
多紀元簡〔タキモトヤス〕(1755〜1810)やその子、多紀元堅〔タキモトカタ〕(1795〜1859)が中心人物で、幕府の医学館の長をつとめ、天下に号令する立場にあったのと、とくに古今の文献が豊富にあったため、文献学的方法により、中国系古典医学の再編成を行ない、「考証学派」を生み出した。一方、新しくはいってきたオランダ医学と、日本の伝統医学の融合をこころみようとする「漢蘭折衷派」も生まれた。
官立の江戸医学館を中心とする考証学派が『千金要方』や『医心方』などの古典を復刻した業績は大きい。
永富独嘯庵(1733〜1766)は長州に生まれ、京都で山脇東洋に古医方を学び、長崎で通訳兼医師の吉雄幸左衛門〔ヨシオコウザエモン〕についてオランダ医学に接し、蘭方に注目するようになった。著書の『漫遊雑記〔マンユウザッキ〕』は蘭医の乳がんの手術に言及しているので、のちの華岡青洲〔ハナオカセイシュウ〕に大きな影響を与えている。
華岡青洲(1760〜1835)は紀州に生まれ、東洞の子、吉益南涯〔ヨシマスナンガイ〕に古方を学び、のち大和見立〔ヤマトケンリュウ〕のもとでカスパル流外科を学んだ。通仙散と称する麻酔剤を創製し、乳がんその他の手術に成功していることは、外科学史上で世界的に有名である。
土生玄碩〔ハブゲンセキ〕(1766〜1854)は安芸の生まれで、眼科医として穿瞳術〔サクドウジュツ〕を創始した。文政九年シーボルト参府のとき、散瞳薬ベラドンナをわけてもらい、代用薬ハシリドコロを知った話は有名である。
後世方および古方の二大流派に折衷派が加わって、徳川時代末期から明治時代にかけ、多数の漢方医家が活躍していたが、とくに著名で現代にいたるまで影響をおよぼしている人々は、次の三医家であろう。
古方派としては、自ら吉益東洞の再来とした、尾台榕堂〔オダイヨウドウ〕で、その著『類聚方広義〔ルイジュホウコウギ〕』は臨床医に読まれている。後世派の代表としては味岡三伯の門下の浅井周伯〔アザイシュウハク〕の流れをひく浅井国幹〔コッカン〕があり、明治の漢方存続運動で最後まで戦った一人である。折衷派の代表医家には浅田宗伯〔ソウハク〕がおり、多数の著作を成し、その門下も全国的に分布し、現在も浅田の流れは京都・大阪方面に伝わって生きている。
明治政府は西洋文化の摂取を施政方針としたため、漢方が質的に当時の西洋医学におとっていたわけではないが、医事制度の改革により、漢方を法的に自滅するようにしたのである。明治九年に布告された医術開業試験の科目は、七科目すべてが西洋医学によるものであった。そして新しく医師になれるものは、この開業試験合格者だけと定められた。こうして漢方は、既得権のある漢方医と、薬種商などによって、細細とうけつがれ、自然消滅の道をたどったのである。
明治43年、近代医学を修得した済生〔サイセイ〕学舎出身の医師和田啓十郎〔ワダケイジュウロウ〕(青年時代より漢方の優秀性に着目し、漢方医の弟子となり臨床経験を積み、日本橋浜町で開業医として漢方診療に従事、大正5年没)は『医界之鉄椎〔イカイノテッツイ〕』を自費出版し、漢方研究の必要性を世人に知らしめようと精魂を傾けた。この名著は大正・昭和の時代を通して復刻され、多くの人々に読みつがれている。
この書を読んで感激し、湯本求真〔ユモトキュウシン〕(金沢医専出身の医師、『皇漢〔コウカン〕医学』三巻の著者、昭和16年没)は和田啓十郎に教えをうけ、漢方の門にはいった。この湯本求真の門下生から、昭和漢方の発展の礎を築いた指導者が輩出し、今日にいたっている。
表は、明治から現代にいたるまでの漢方のおもな流派とその継承研究家の尊名を列挙したものである。
明治 | 大正〜昭和 | |||
〔古方派〕 | ||||
・和田啓十郎---> | ・湯本求真---> | ・大塚敬節---> | -------> | ・相見三郎 |
・清水藤太郎 | ・高橋国海 | |||
・荒木性次 | ・山田光胤 | |||
・木村康一 | ・大塚恭男 | |||
・寺師睦宗 | ||||
・藤井美樹 | ||||
・宮坂光洋 | ||||
・岡野正憲 | ||||
・松田邦夫 | ||||
・奥田光景---> | ・奥田謙蔵---> | ・和田正系 | ||
・藤平 健---> | ・松下嘉一 | |||
・伊藤清夫 | ||||
・小倉重成 | ||||
〔後世派〕 | ||||
・浅井国幹---> | ・森 道伯---> | ・矢数 格---> | ・矢数道明---> | ・矢数圭堂 |
・矢数有道 | ・室賀昭三 | |||
・中島紀一 | ・菊谷豊彦 | |||
・木村佐京 | ||||
〔折衷派〕 | ||||
・浅田宗伯---> | ・木村博昭---> | ・木村長久 | ||
・高橋道史 | ||||
・安西安周 | ||||
・中野康章---> | ・森田幸門---> | ・柴田良治 | ||
・西山英雄 | ||||
・新妻荘五郎-> | ・細野史郎---> | ・坂口 弘 | ||
・細野完爾 | ||||
・内炭精一 |
一般に、草根木皮〔ソウコンモクヒ〕を水で煎じて服用したり、または粉末にして服用したり、外用薬として治療するのが「漢方薬」と思っている人が実に多い。医師・薬剤師のなかにさえも、同じ考えの人がいるので、素人が誤解しているのは、まったくむりのないことである。
クコ、ハブ茶、ゲンノショウコ、センブリ、どくだみ、トウモロコシの毛などは民間薬で、たいてい一種または二種を煎じて服用している。アロエ、センナ、ウワウルシなども同様で、西洋の民間薬といえるものである。
民間薬による療法は民衆の知恵であり、伝統的なものであるが、使い方が××病には○○草の根、などといったやり方で、西洋医学の病名治療と似ている。
民間薬は病気にうまくあたれば(適合すれば)非常な効果を発揮するが、まったく無効の場合も多いようである。これは病人の個人差を無視して服用しているからである。近頃は数種の民間薬をまぜあわせて、それらの複合作用をねらう「健康茶」的な用い方も広まっている。
さて、漢方薬は同じような草根木皮を原料として治療に用いるのであるが、漢方の処方(正式には薬方)のなかに配剤される生薬の種類・分量は昔からきめられていて、勝手にかえられないことになっている。そして煎じ方や使い方(服用方法)にも約束がある。たとえば、葛根湯〔カッコントウ〕は、葛根4.0、麻黄・生姜〔ショウキョウ〕・大棗〔タイソウ〕各3.0、桂枝・芍薬・甘草各2.0(各グラム)という七味の生薬で一日分の処方が構成されている。この分量や分量比を勝手にかえることはできない。もし分量をかえると葛根湯としての方格(人の人格のようなもの)が失われ、薬の効果がよわってしまうか、無効となるであろう。
葛根湯は単にかぜの薬ではなく、非常に広範囲の疾患に応用されるし、実際に効果をあげている点が民間薬と違う特長の一つであろう。
漢方薬は治療にあたって、患者から自覚症状を中心に多くの情報を集め、きめこまやかな配慮のもとにえらばれ、そして治療に用いられる。民間薬は一つ二つの目的で、すぐに応用されるものが多い。
同一の薬(草根木皮)でも、使い方で民間薬にも、漢方薬にもなるものがある。たとえば朝鮮人参は多くの漢方処方の重要な構成生薬であるが、普通単味で使うのは「独参湯〔ドクサントウ〕」といって、多量の人参だけを煎じ、続発性微弱陣痛や、出産途中で産婦の元気がおとろえた場合に用い、また外傷などで血液が損耗している場合などに用いるのが昔からの漢方の用法であるが、民間薬的には、粉末にしたり、けずって服用したり、酒類に潰けたりして、体力増強を目的に用いられている。
また、ヨク苡仁〔ヨクイニン〕(はとむぎ)は、皮膚のあれ(たとえばサメ肌)やイボ(疣贅〔ユウゼイ〕)をとる目的で使うと民間療法的であるし、ヨク以仁に敗醤根〔ハイショウコン〕と附子〔ブシ〕を加えて用いると「ヨク苡仁附子敗醤散」という立派な漢方処方となる。
漢方薬と民間薬との差は、処方として、また処方中の生薬としての「証」を重要視して用いれば(証にしたがって用いれば)漢方薬であり、証を無視して一症状、一病名を目標に用いれば民間薬になる、という点にある。すなわち、漢方薬には非常にきびしい使い方の法則があり、民間薬には法則がないといえる。漢方薬の使い方の法則はきわめて複雑かつ難解であるため、大衆のなかに広く浸透できないのであるが、一方、民間薬は非常に簡単に活用できる利点がある、といえよう。
民間薬 | 漢方薬 |
多くの場合、一種類(一味)で使用する。 |
ほとんどの処方が、数種類をあわせて使用。習慣的、常識的に病名や症状に対して使用。 |
習慣的、常用的に病名や症状に対して使用。 | 漢方的診断である「証」をとらえて、その証に基づき使用される。 |
比較的安価に入手できるものが多い。 | 多くの原料生薬が輸入品であり、保管方法が難しいなどで、比較的高価である。 |
原植物や民間的な俗称でよばれている。(例)どくだみ、ゲンノショウコ | 古来からの独特の「薬方名」でよばれる。(例)葛根湯、小柴胡湯 |
素人の人でも、手軽に使うことができるし、副作用も比較的少ないものが多い。 | 「証」のつかみ方のできる技術を習得している専門家(漢方の医師、漢方の薬剤師)による指導が必要である。もし証が合っていないとまったく無効か、場合によっては副作用もある。 |
日本の伝統医学、漢方は、主として傷寒論をはじめとする古典の処方を臨床に応用してきている。患者の病症や「証〔ショウ〕」によっていろいろの加減方も研究され、応用されている。これらの加減方や、先哲漢方家の経験による新しい処方(創方)がたくさんあって、これが日本漢方の特徴の一つになっている。
これら本朝経験の処方として伝承されたもののなかには、秘方または秘伝として伝わったものも多い。処方の内容や分量など詳細のわからぬものもあるが、近代の研究者によって、有効性が再評価され、著名になった処方も数多くある。
甲字湯〔コウジトウ〕、乙字湯〔オツジトウ〕、柴陥湯〔サイカントウ〕、治頭瘡一方〔ジズソウイッポウ〕、連珠飲〔レンジュイン〕、女神散〔ニョシンサン〕、紫根牡蛎湯〔シコンボレイトウ〕などは、今もさかんに活用されている処方である。
また現代のものでは、大塚敬節先生創方の「七物降下湯〔シチモツコウカトウ〕」など、有名なものがある。
西洋医学は解剖学・病理学を基礎において立てられた医学で、西洋医学の病名は、解剖病理学と動物実験に基づく病名、あるいは診断名であることが多い。
西洋医学は人間の体を、自然界(自然的環境)から切りはなし、別個のものとみなして、人体の解剖学的臓器や器官の「病理学的な変化」に病気の実態をみているのである。
現代医学・薬学は「科学的」であると誇称している。そして、その基礎をおいている「動物実験」も、大局的にみると非常に短い期間のものであるのに、ある程度の効能をみとめると、ただちに人間に応用され研究されている。製薬会社が医師を通じて患者に与えているもののなかには、人体実験中の薬物が相当あることに気づかねばならない。もちろん、それら薬品のなかにも優秀なものは含まれている。しかしなんらかのふつごうがあると、医師にも一般人にもわからぬうちに消えてゆく薬品もあるのである。
人間と動物との本質的な違いを無視しがちな、動物実験による医・薬学には、現段階では限界があり、薬禍が問題化されるのは当然であろう。「人間は動物ではあるが、動物は人間では絶対にない」ことを銘記すべきである。
さて、漢方の病態の把握の方法は、西洋医学のそれと、根本的に相違している。漢方は病気というものを、人体と自然的環境との交流循環の障害、または異常とみなしている。漢方では、人体の病態を、気・血・水の運行(めぐリ)の障害と判断する。
漢方で使用する薬は、天然の生薬である。何種類かの生薬を組み合わせて水で煎じて服用する場合が多いので、生薬のもつ複雑な作用を充分発揮することができる。人体を構成する成分の約70%は水分であり、水はあらゆるものをとかすカがあるからである。
漢方の薬は、数千年という長い時間をかけて、幾多の先哲たちによって使用され、淘汰され、伝承されてきたものばかりで、すべて人間の体を通して(つまり人体実験で)有効性を確かめられたものである。漢方薬の再認識・再評価が注目されているのは、まったく当然のなりゆきである。
現代西洋医学が、ウイルヒョウ(1821〜1902)の細胞病理学説以後、それまで積みあげてきた経験医学の多くをすてさってしまったのは、まことに残念なことの一つであろう。
現代西洋医学は基礎研究と伝統をもつ立派な医学である。電子顕微鏡や各種の器機分析法の実用性、ことに生化学の進歩に伴う業績はめざましく、生化学を知らずしては現代医学を語れないくらいである。病気の実体も微にいり細を穿ち究明されてきている。細胞単位で分子レベルの研究が成果をあげている。精神と身体医学面での研究もとりいれられている。また気候内科や宇宙医学など、医学と自然とのかかわりあいも研究が着手されつつある。
しかし、これらすばらしい研究業績をもってしても、なお多数の病人があり、増加している事実は、立派な研究に伴った完璧なる治療法が少ないからではなかろうか。まことに遺憾なことである。
これら研究面と治療面の不合理性については、治療法の基礎となっているものが、抽出あるいは化学合成した薬品に依存していたり、強力なる放射線などによって治療しようとする傾向にあるからであって、病気をもつ「病人が自然界の存在物」であるという点や、
また病気によっては、疾病の真の原因が人体の「外からの自然のカ(漢方では風寒暑湿燥火などとよんでいる邪気、別な表現をすると、天地自然のもつマイナスのはたらき、マイナスの力、または宗教的に表現すれば神霊などの作用)」の人体におよぼす影響にあるといった点をまったく無視し、ただ局面的、対処的にしかみていないので効果が出ないのではないかと思われるふしがある。
現代医学の主流を成しているのは、ルネッサンス(文芸復興)以後のデカルト哲学に基礎をおいた、自然哲学思想による医科学であり、宗教と断絶した医学である。ヨーロッパでは、医学はキリスト教に抵抗しながら発展発達してきたのである(ここに重大な意義がある)が、日本にシーボルトによって伝えられた(1823年)西洋医学は、当時の歴史的背景(鎖国政策やキリスト教禁制)のため、まったく宗教と断絶した、宗教に牽制されない純粋の自然科学としてはいってきたのである。
徳川幕府により人為的にゆがめられてはいったこのような医学体系が、現代の医学、医学教育につらなっているのである。純然たる「自然科学的」医学が、日本の現代医学体系の嚆矢となっているといえよう。しかし、これは医学本来のあり方ではないのかもしれない。というのは、医学は「人間」を研究対象とするものであって、動物を対象とする生物学や動物学とは違うからである。
人間の身体は「心」を表現する器(機関)である。動物と違い、「心」を治療することが、人間の病気治療の上では是非とも必要である。本来、宗教というものは人の心を導き、本心を開発するものであろうから、人間の病気にはどうしても宗教によらなければ「本質的」に冶すことが不可能なものがあるのではないだろうか。西洋医学も、原点としてキリスト教と伴侶であったのであるから、やがてまたその思想が医学にとりいれられる時期がくるかもしれない。
かつて中国から日本に医学を伝えた恩人、田代三喜と、その弟子で日本に医学を広めた曲直瀬道三は、僧籍にあったので、医の倫理にきびしかった。そして病人に対する医師の心がまえの第一は「慈悲」であるとしたのである。日本の漢方は伝統として、患者を「病んでいる人」としてみて、「人間をはなれた病気というものはないのだ」と考えてきている。すなわち漢方は、人間の心をも同時に治療しようとする、「愛」の医学思想をも、そなえもっているのである。
漢方は心と体は一つのもの、すなわち心身一如の立場に立っている。喜怒憂思などの感情(心)が肉体(ことに内臓)に影響を与えることは、精神身体医学の分野でも証明されているが、漢方(東洋医学)では数千年も前からこの事実を診療に応用して効果をあげているのである。
近年、現代医学で免疫学をはじめとして、広く有用な実験動物として使われている「ヌードマウス」は、先天的に胸腺を欠損し、リンパ節に胸腺依存リンパ球(T細胞)を欠如しているので、非常にすぐれた利用性をもっている。胸腺と免疫にかんする研究はいうまでもなく、異種移植が可能なことから、がんの研究をはじめとして、疾病モデル動物として、大きな成果が期待されている。
病気が発病・発症するのは、病原体や病毒が原因となるだけではなく、生体(病人)のがわにも、病気になる原因や素因が多分にあるのだ、ということに気づき、研究されてきているようである。
このような生体のもつ欠陥、すなわち「防衛力欠如の状態(病毒に対して抵抗力のおちた状態)」が実在するということは、漢方(東洋医学)では、すでに数千年前からいわれ、その治療対策も整備されていることであり、なにを今さらというべきであるが、現代医学においても科学的に証明されつつある傾向は喜ばしいことである。
漢方の薬理や薬効の研究にも、ヌードマウスは導入され、研究されねばならないだろう。
図表3
西洋医学 | 漢方 |
科学的 | 哲学的 |
分析的 | 総合的 |
局所的 | 全体的 |
外科的 | 内科的 |
対「症」的 | 対「証」的 |
理論的 | 経験的 |
基礎医学的 | 臨床医学的 |
予防医学的 | 衛生医学的 |
社会医学的 | 個人医学的 |
病原体を予防 | 体質強化で予防 |
自然征服的 | 自然に順応的 |
動物実験が中心 | 人体の経験が中心 |
細胞病理学的 | 体液病理学的 |
他覚症状を重視 | 自覚症状を重視 |
純粋化学薬品使用 | 天然生薬使用 |
■監修者
■山田光胤(やまだてるたね)
1924年、東京に生まれる。
1951年、東京医科大学卒業。医学博士。
漢方医学は岳父大塚敬節医師について学ぷ。
現在、社団法人日本東洋医学会会長、財団法人日本漢方医学研究所常務理事、東亜医学協会監事。山田医院院長、中将湯ビル診療所勤務。北里研究所付属東洋医学総合研究所、東京教育大学などに出講。
著書に「漢方処方応用の実際」(南山堂)「あなたの病気の漢方療法」(青樹社)『漢方療法』(読売新聞社)など。
■著者
■山ノ内慎一(やまのうちしんいち)
本名 信一
1929年、東京に生まれる。
1951年、東京薬科大学、
1954年、明治学院大学、
1961年、日本獣医畜産大学卒業。医学博士(久留米大学)。
漢方医学は杏林会をはしめ日本漢方医学研究所、千葉大学東洋医学研究会、日本漢方協議会などで学び、1973年より藤門会(藤平健先生中心)で漢方古典を研究し現在にいたる。
漢方専門薬局経営、日本東洋医学会委員、日本漢方協会理事。
※■■『よく効く漢方と民間療法』より引用
昭和53年10月5日初版発行
昭和57年 8月5日6版発行