『東亜医学』誌について

  矢数 道明   

 

 昭和10年、漢方医学に情熱を傾けていた同志七人により「偕行学苑」が創立された。

 これを前身とし、日華満をはじめ、東亜諸国の伝統医学による文化交流、友好親善、さらに政治活動をも目標とし、昭和13年11月23日「東亜医学協会」が発足した。「東亜医学」はその機関誌として、新聞紙法による政治記事までに及ぶ手続をとったものであった。

 毎号A4判8頁で、昭和14年2月より、昭和16年3月15日まで、毎月発行され、通巻26号を刊行した。

 26号を以って休刊となったのは、戦時下雑誌統合令のためで、『漢方と漢薬』誌を存続させるため、「医道の日本」と「東亜医学」は、法令に従い、合併し、その犠牲となって姿を消すことになったのである。当時『漢方と漢薬』ただ一誌が残り、昭和19年9月戦災のため休刊して漢方鍼灸関係誌は一誌もなくなった。

 戦後、昭和29年9月から、協会の活動を再現させ、現在の月刊誌「漢方の臨床」誌を創刊したが、その第1巻から第25巻までを、昭和53年に雄渾社が復刻出版した。そのとき、この「東亜医学」は東亜医学協会の機関誌であったという意味から、これを全1巻の合本として添附復刻した。それ故この復刻は一部分にしか知られていない貴重なものであった。

 現在の驚くべき漢方医学の復興の時機に当って、昭和初期の漢方医学が、どのような経過を辿って復興の道を歩んでいたかを知る、日影にかくされたささやかな記録の一面である。

 

 昭和15年11月発行の「東亜医学」、第22号の第1頁、全面を使って東亜医学協会の新機構が発表されている。

 これを見ていただければ判るが、拓殖大学当局では永田秀次郎学長、学監宮原民平氏ほか六名の方が顧問となって全面的に協力して下さった。又、漢方講座は特別優遇を受け、講師は全員大学の講師待遇で、講座の収入残金は全部協会に支給されたのであった。その資金によって漢方図書館も誕生したのである。

 この「東亜医学」誌の雄渾な題字は、大塚敬節理事代表が永田学長にお願いして、とくに揮毫していただいた記念の文字である。

 新機構の上段左に、国際交流(連絡提携)機関として、満洲国民生部(保健司防疫課長)張継有氏、蘇州国医々院長葉橘泉氏、北京国医砥柱社楊医亜氏の名があるが、その方々は戦後新中国誕生のとき、中医学会の理事となって活躍されていた。筆者とは五十年来の親交を結んだ師友で、戦後中国と交流が行われるや、記念すべき学会の席で劇的な対面が恵まれてきた。この『東亜医学』には東亜諸国との五十年の歴史が秘められている。